寝楽起楽

ネタばれには配慮しない、感想/紹介ブログです。毎週1回更新 +α を目指したかった。

所要時間20分の記事

日常で何かあった時に、「あ、これブログに書こう」と思うことが結構よくある。

しかしその割に、このブログの更新頻度は滅茶苦茶低い。それは一体何故起こるかといわれれば簡単で、こういう感じで書き出して~とか考えてるうちに大体満足して書くまでに至らないからである。

 

文章を書くというのは本当に労力がいる作業だと感じることが多い。web小説やら何やらでたまに「原稿用紙70枚程度の短編だからすぐ読めます」とかさらっと書いてあることがあるけど、70枚!?って感じじゃないすか?つまり3万字弱を書き連ねてるわけで、凄いと思う。けど実際に読んでみると本当に体感としては全く時間かからず読み終わってしまったりする。人が何十時間、何百時間もかけているものを消費するのは本当に簡単なことで、これも考えてみると凄いし、同時に作り手としては虚しくならないのだろうかと疑問に思ったりもする。

 

こんなどうでもいいブログのどうでもいい文章でも、頭に浮かんだアイデアを実際に文にして、という風にするのは(僕基準では)手間だ。思いついただけで消えていったものは多くあるし、途中まで書いて下書きにおそらく永遠に陽の目を見ることがないまましまわれているものも一杯あるし、なんなら今日のこのテーマも何回も思いついてたけど面倒で書く気にならなかったものである。

 

作った人が費やした時間を考慮に入れながら作品を見るようにすれば、より真剣にそれを味わえると思う。別にこのブログの文章を真剣に読め、と言っているわけではない。いうほど時間はかけてないし、単に消費するべくして産み出されるものは無限に存在する。ただ僕が単純にどんなものでもざっくりアバウトに大枠だけ見て鑑賞を終わらせてしまう習慣があるので、神は細部に宿る、とかそういう話でもないけど、自戒の意味をこめて書いた。

 

いまさらですが、あけましておめでとうございました。では。

6次の隔たりゲーム

知り合いの知り合いの知り合いの知り合いの知り合いの知り合い、までいけば世界中の人と繋がることが出来る、という例の奴を6次の隔たり、と言うらしい。なんかかっこいい。

 

しかし世界中の人、といわれても実感は全く湧かない。この言葉、結構巷で見る気がするけれども、その度に僕の頭に浮かぶのはブラジルあたりでサンバを踊り狂っている黒人女性で、そんな人と繋がってるよ!と言われても困惑しかない。

 

しかしこれが例えば、今同じ電車に乗っている、貧乏ゆすりの激しいおっさんと繋がってるよ!と言われると俄然真実味が増す。困惑するのは変わらないけれども。

言い方を変えると印象が変わる、これは好例になる気がする。

 

そんな訳で(?)、6次の隔たりゲームというものを思いついた。やり方は単純で、同じ空間にいる知らない人を、あの人は3次の知り合い、あの人は5次、というように分類分けしていくという遊びである。

 

その際、できるだけ具体的に、同じ大学の友達の姉の仕事場の人、とか想像するとなお良い。どういう基準で良いのかは知らない。

 

このゲームを繰り返すことで、自分がどういうタイプの人に親近感があり、どんな人に嫌悪感があるのかが分かるようになる。

課題があるとすれば面白そうじゃないことで、スマホの電源が切れて他になんもなくどうしようもない時とかにやってみたい。

 

後これは完全に余談だけれども、さっき知らない人を打ち間違えた結果、知らないにと、という謎の予測変換がiPhoneに表示されるようになってしまい、語尾に「にと」をつける謎のゆるキャラが脳内に生まれた。

『ゆれる』 2006年 監督:西川美和

『ゆれる』予告編 - YouTube

 

 

ゆれる

ゆれる

 

 

 

地方に残り、家業を継いで働いている兄と、地方から飛び出し、東京でカメラマンとして働いている弟。母が亡くなったことを契機に帰ってきた弟だが、そこで事件が起こり・・・という話。
詳細は予告編を参照されたし。

すげー面白かったが、すげー読解力が必要な映画だった。
正直僕は兄の心理がほんとに全く解らず、見終わったあといくら考えても納得出来ずに、「大阪の一般人の男と女が大阪市ワンルームでだぁーっとしゃべったりゲラゲラ笑たりしてたらなんだかんだむっちゃええ感じになるんちゃうか?そんな感じでやってまうん。PODCAST」、略して「大大だゲなじ感(だいだいだげなじかん)」の完全ネタバレ回を聞いてやっと腑に落ちた。上のpodcastも凄く面白いのでおすすめ。


僕にはリアル兄がいるのだが、この映画の兄の心理が解らない=うちの兄の心理もまたぜんぜん解ってないということになる。この映画と同じように、兄はきっといろんなことにきっと耐えている。
そして僕はおそらく無自覚のうちに、兄からいろいろなものを奪っているんだと思う。
家がたまたま自由にさせてくれているがために、その度合いも低いだろうけど、この映画みたいな閉塞的な環境にもし生まれていたら、僕はきっとオダギリジョーと同じように兄にすべてを押しつけ逃げ出してるに違いないし、兄はきっとそれを受け入れ、耐えていくに違いない。

これをみて、兄と弟どっちの視点になるかで、自分の兄弟感が自然と炙り出される。地味な映画だけれども、見て損になることはないと思う。