「我らは知っている。父親から、そのまた父親から一部始終を聞いた。彼らはまるで子羊のようにやってきた。もの静かなしゃべり方をした。連中がもの静かにしゃべったのも当然だ。当時は我らのほうが数が多く、強力で、すべての島を支配していあたのだから。それでもの静かなしゃべり方をしたのさ。やつらには2種類の人間がいた。ひとつは神の言葉を説く許可を求めた連中だ。彼らはこちらの寛大な許可を求めた。もうひとつは交易をする許可を求めた連中だ。彼らもこちらの寛大な許可を求めた。そいつが始まりだった。
(P32より)
植民地期の闘争を真っ向から書いた作品って読んだことなくて新鮮だった。
○あらすじ
ハンセン病を患ったハワイ先住民が白人と闘う ジャックロンドン「萎えた腕」(村上春樹訳)
挫折して故郷に返る青年が過去を振り返る カーソン・マッカラーズ「無題」(柴田元幸訳)
制御できない呪いの因果 トマス・ハーディ「萎えた腕」 柴田元幸訳
主人を失い行き場をなくした きたむらさとし「外套」
「病者クーラウ」、まえおきでハンセン病の描写が惨いんだけど、当時(1909年初出)の目線を反映しているものだからそのまま載せますていうてて、覚悟決めて読んだらひょうしぬけた。
ただこれはハンセン病について自分が無知すぎたことが関係してて、画像検索したら納得いったんだけど、初読時は例えば
彼ら男女三十人は、社会から締め出されたものたちだ。彼らの上には獣のしるしがつけられていたのだ。
人々は花輪をつけ、月光を浴び、かぐわしい匂いのする夜の中に坐っていた。彼等の唇は奇妙な音を立て、その喉はクーラウの言葉に賛同するように、耳障りな唸りを発した。誰もがかつては当たり前の男女であった。しかし今はそうではない。今では彼らは怪物だった。(p33)
とか
「誰が病を運んできたのだ、クーラウ?」とキロリアナが尋ねた。
針金のように痩せた男で、笑ったファウヌス(ローマ神話の神)のような顔をしている。ヒトはその顔を見て、下半身に裂けた蹄があることを期待するかもしれない。(p34)
とかから、ハワイが舞台ということもあいまって、クトゥルフとかのグロテスクだけど神性を帯びてる人たちの病者、みたいなファンタジーな読みをしたのが原因かと思われる。
ただ醜さだけを強調するならローマ神話の神を引き合いには出さないだろうから、ある程度意図的にやったのでは?とも思うが、村上さんがそんなことは一言も言っておらず、当時の事情もとんと詳しくないので分からん。
主人公であり反乱のリーダーでもあるクーラウは、史実の通り負けていくのだが、その際に白人のシステム的な支配への意思に対して尊敬の念すら抱く。それさえ共有してさえいれば白人側は誰が全面に出てきてもよく、白人のほうに固有名を持つ人物が登場することはない。
一方で反乱側はクーラウで保っているようなものであり、彼はたった一人で白人全体の意思と闘っているも同然で、まあそりゃあ負ける。
で、その個人vs白人の構図が、同時に神話vs近代科学の構図として読み解けたら面白いなー、と思いながら読んでた。ほんとにそれでいけるのかは知らんが、多分無理筋。
「無題」、あらすじで一行でまとめてしまうとなんともつまらんね。
場末の町の寂れた酒場で、子ども時代の未だ本人の中で消化できていない思い出を徒然に回想していくうちに、突如として精神的に大人への脱皮を果す話だと思って読んだ。
思い出の一個一個をトラウマ的に保持している実感が滲み出ていて読ませるものがあり、カーソン・マッカラーズは他作品も読みたいと思えた。
後終わり方に中々非凡なものがある。最後の7行、多分削ってもそのまま小説として成立するんだけど、それがあることで全体の深みがぐぐっと増しているように感じる。
「萎えた腕」、これは普通にエンタメ小説として質が良いかなという印象。イギリスの田園地帯が舞台ということで、その辺の雰囲気もついでになんとなく知れて現代のと比べてお得だってぐらい。
「外套」は唯一の絵本。なんか良かった、としかいいようがない。のめりこむような風でもなく、とぼけた空気のまんまそう終わるのかあ、で終わって。外套が何の違和感もなく意思を持って動いているのも、普通に受け入れて読めてしまうのが不思議だ。
このvol7MONKEY、他に村上春樹と柴田元幸が復刊されてほしい翻訳小説について語る、という題目でアメリカ・イギリスの小説を豊富に網羅してくれるのと(まあ名前が挙がった奴大半絶版で読めないんだけど)、村上春樹に川上未映子がインタビューしてる奴と、あと発行2015年なんでノーベル賞関連ではなくカズオ・イシグロにもインタビューしてたり、内容が濃い。
お洒落風で手出しにくいと思ってたけど、思ってた以上に良い雑誌だった。今後も買い。
以上。