寝楽起楽

ネタばれには配慮しない、感想/紹介ブログです。毎週1回更新 +α を目指したかった。

い つ も の:『女のいない男たち』 村上春樹 文春文庫 2014年

 女のいない男たちになるのはとても簡単なことだ。一人の女性を深く愛し、それから彼女がどこかに去ってしまえばいいのだ。ほとんどの場合(ご存じのように)、彼女を連れて行ってしまうのは奸智に長けた水夫たちだ。彼らは言葉巧みに女たちを誘い、マルセイユだか象牙海岸だかに手早く連れ去る。それに対して僕らにはほとんどなすすべはない。あるいは水夫たちと関わりなく、彼女たちは自分の命を絶つかもしれない。それについても、僕らにはほとんどなすすべはない。水夫たちにさえなすすべはない。

(本著p294より)

 

 女性とジャズとカフェはまじ伝統工芸。

 

女のいない男たち (文春文庫 む 5-14)

女のいない男たち (文春文庫 む 5-14)

 

 

 ○あらすじ

女性運転手と契約した「ドライブ・マイ・カー」

東京生まれの関西弁、関西生まれの東京弁「イエスタデイ」

52歳の本気の恋「独立器官」

ピロートークシェエラザード

狂ってしまった何か「木野」

今はもう居ない彼女ら「女のいない男たち」

以上6編所収。

 

○考察・感想

 長編の息抜きとして書いている短編たちですらこういう話になるから村上さんはすげーよなー。執念を感じる。

 

 そんなかでも、どろっとしたものがあったという点で、「独立器官」と「木野」はわりと好き。まあでも全体として傑作という風ではなく、 村上入門、もしくはファン向けの作品という気がする。

 

 今回6つ読んでみて、彼の書く主人公ってものの見事におんなじ顔してそうだなと思った。それぞれの主人公を入れ替えてみたとしても、最終的には同じような結末に向かうんじゃなかろうか。

つまり彼が書きたいのはそこではないんですよね。何かって言われてしまうと困るけど。一言で説明できないから小説を書くんだ、という風にどっかで村上さん言ってたんで、読めばなんとなく伝わるんじゃないすかねぇ。無理に追う必要もないけど。

 

 『女のいない男たち』であって、『女の出来ない男たち』ではないんだよなあ。後者を書いてくれたら発売当日に買うんだけどなあ。何が出てくるのか予想もつかん。

 

○印象に残ったシーン

 初夏の風を受け、柳の枝は柔らかく揺れ続けていた。木野の内奥にある暗い小さな一室で、誰かの暖かい手が彼の手に向けて伸ばされ、重ねられようとしていた。木野は深く目を閉じたまま、その肌の温もりを思い、柔らかな厚みを思った。それは彼が長いあいだ忘れていたものだった。ずいぶん長いあいだ彼から隔てられていたものだった。そう、おれは傷ついている、それもとても深く。木野は自らに向かってそう言った。そして涙を流した。その暗く静かな部屋の中で。

 そのあいだも雨は間断なく、冷ややかに世界を濡らしていた。

(本著p275-276) 

 

 

 わけわからん、みたいな評価もされることは多いけど、なんとなくこういう印象みたいなものはある程度共有できません?多分これも彼のテーマの一個なんだと思うんだよなあ。

 

以上。

種を明かす:『イリュージョニスト』 シルヴァン•ショメ監督 2011年

www.youtube.com

 

ぼくのおじさん」で有名なジャック・タチの脚本がアニメ化。

 

 

 


 

〇あらすじ

 手品師の男が田舎で少女に芸見せたらそのまま都会までついてきちゃってどうしよう

 

〇考察・感想

 考えたい問題としては2点あって、一つ目は「なんで手品師は少女の許から姿を消したのか?」です。

 

 少女はずっと手品師の芸を魔法だと信じてるんですね。んで、言葉が通じないから、ほんとは手品だよってことも言えずに、手品師は少女の無邪気に求めるがままにたくさんのものを魔法で(ほんとは購入して)与えていく。

 

 その結果、少女は垢ぬけた一人の都会の女の子になります。ヒールを履いてつまずくことも、都会の子に気後れして道を譲ることももうありません。んで、最終的には、一人の都会の男と恋に落ちることになります。

 

 手品師にとってそれは非常にショックなことだった。女の子が幸せそーに男と歩いているのを見た彼は、自分の商売の種である手品を捨て、相棒のうさぎを野に放し、一人去っていきます。置手紙として残した、「魔法使いは存在しない!」の殴り書きからは、彼の思いのたけが感じられてなんとも切ない。

 

 ただこの、去っていく動機がちょっと視聴時には不明瞭に思えました。父と娘ぐらいに年齢が離れているし、少女に恋をしていた、という話ととるのは描写的には無理があります。

 

 で、いろいろ考えて、手品師的には、少女を自分の種のある手品で、こんな都会にまで連れてきてしまった責任感があったのだろうと。金を捻出するために、洗車のバイトにまで手を出そうとする尽くしっぷりだし。

 

 それが都会の男が出てきて、彼が面倒を見ずとも少女が生きていけそうな目途がついた。もう魔法をかけ続けなくともよくなった、だから彼は魔法の元である手品を捨て、あえて少女に手紙で種を明かすことで(英語を少女が読めるのかはわからないですが)、一人の女性としての独り立ちをさせるわけですな。

 

だから女の子の視点でずっと見ていけば、これはサクセスストーリーになります。ただ映画自体が手品師に寄り添って描かれているせいで、視聴者的には彼が報われなさ過ぎてめちゃつらい。かわいそすぎる。もうちょっとなんとかならなかったのか、というところで二つ目の話につながります。

 

 物語中、一貫して示唆されるのは、手品師をはじめとする大道芸人たちが凋落していくことです。ロックバンドは千客万来な一方で、手品師の講演には閑古鳥が鳴きます。同じホテルに住んでいた腹話術師は、物語終盤では酒におぼれた物乞いになり、商売道具であり、一緒にご飯を食べるほど仲良しだった人形は質屋に出されます。それも、最終的には無料で。

 

 物語の出だしは、映画『イリュージョニスト』が映画中で開演するところから始まります。では終わりがどうかというと、街の明かりが一つ一つ、少女との思い出の場所を順々にたどりながら消えていき、最終的に手品師が講演していた劇場にたどり着きます。

 

最後に残った明かりは劇場の看板。それも消える、と思ったときに、一番はじっこの光がふわっと浮き上がる。多分ホタルか何かだったんでしょうが、見ている側には、それが飛び立つまでそうとはわからなかった。つまり、一種の手品をそこで見せられているわけです。

 

 考えてみると、映画というのは、初めから種が分かっている手品のようなものということもできます。2時間程度で終わる作り話、そうと了解した上で、私たちは映画を楽しみます。

もし全部が全部本当のことだと思ってしまう人がいたら、映画なんてとてもじゃないけど見てらんないでしょう。

 

劇場というのは、現代では映画を見る場所でもあります。つまりタチさん、ひいてはショメは、我々自身がこの手品師である、と言いたかったのではないかと。

もし少女のように、無邪気に物語だけをねだるような存在に甘んじ続ければ、私たちは去ってしまうぞ、そんな警告だと自分は読み取りました。

 

 まあ監督インタビューで、「視聴者がいろいろなことを想像できるように、物語にはあえて余白を残した」と言っている通り、様々な解釈の余地があると思います。

 映画の表現自体もすごく面白いです。定点カメラが頻繁に使用されるんですが、その分僕ら視聴者の視線はそこにいる登場人物の動きに集中することをしっかり把握していて、一人ひとりの動きがめちゃくちゃ丁寧。

 

 見て損はない映画だと思うんで、よろしければぜひ一度どうぞ。以上。

 

 

山のヌシは微笑む:『蟲師 特別編 鈴の雫』 監督:長濵博史 原作:漆原友紀 2015年

およそ遠しとされしもの

下等で奇怪

見慣れた動物達とはまるで違うと思しき物達

それら異形の一群を、人は古くから畏れを含み

いつしか総じて「蟲」と呼んだ

 

記念すべき(?)100記事目らしいです。

 

 

 

 

 

○あらすじ

 山のヌシとなってしまった少女が、人と山のハザマでゆれ、最後に

www.youtube.com

 

○考察・感想

 『蟲師』という作品は、人とは違う、理屈抜きでただ在るモノたち(=蟲)という存在の居る世界を、凄く丁寧に描き出す。だから凄く好きだと思ってきたわけだが、この『筆の雫』は、その「人とは違うモノたち」という自分の認識を、頭からぶんなぐってくれた。

 

 中盤で、主人公であるギンコが、山のヌシの少女カヤに対し、お前さんが山のヌシであってくれてよかった、と語るシーンがある。

山のヌシを人が成せた時代は遥か昔のことであり、もう人は山と一つにはなれないと思っていた、と。

 

 しかし結局、カヤが人の側に触れてしまったがために、山の統治は安定しなくなる。

人からヌシはもはや生まれない、人は山の理から外れていくのだ、と囁く、知性を持った蟲たち(?)に対し、ギンコは「人が山から外れていくことはない。人も山の一部なのだから」と応答する。これにとても虚をつかれた。

 

 

 人間も自然の一部なんだよ、なんて言葉は非常によくある話で、そういった類の本や主張を見聞きする度、それに同意するような立場に自分はこれまで立っていたと思っている。

 

 そんな自分が、この作品の蟲たちのことは、「人とは全く違う理の中でいるモノ」としてしか見ていなかった、ギンコの言葉は、それを気づかせてくれたのだ。

 

 ゆえに多分これまで、僕の目に蟲が写ることも、ましてやヌシになることもなかったのだろう。

他者としてある蟲たちを、どのようにして隣人として引き寄せるかを、今後の課題にしたいと思う。

 

 

もののけ姫とかが好きな人なら『蟲師』は多分絶対好きなので、是非見てみてほしいし、漫画も買ってほしいし、ついでに「ふでの海」の淡幽さんに心奪われればいいと思う。

 

やーしかし100記事か。飽きっぽい自分にしてはよくやったもんだ。文字数にしたら全然ないだろうけど。

 

以上。

古き良き異世界的昭和:『コクリコ坂から』 宮崎吾朗監督 2011年

結構良かった(すごく良くはない)。

 

 

コクリコ坂から [DVD]

コクリコ坂から [DVD]

 

 

○あらすじ

 横浜(?)の港街に住む少女が少年に恋する

 

○考察・感想

 1964年、東京オリンピックの年が舞台ということで、まだまだ古くさーい雰囲気の町並みが強調されるシーンが随所に見られるが、これがとっても良かった。

 

50年も前にもなるともう完全に異世界だなぁという感じ。無論アニメだから事実と異なる部分もあろうが。ベッタリと油のついたような背景の凄さはジブリの特権という気がする。

 

 

 ストーリーは、まあ別に普通に見れるんだけど、もうちょっと見せ方なんかあったんじゃないかなあ。

 

メルが布団の中で泣いて、そこで話は終わるんかな?と思いきや、カルチェラタンっつう明治から建ってる、学校の由緒ある建物の取り壊し反対運動の話が続いて、ああこの話でいくんかーと思ったら突然恋がまた全面に出てきて、全体としてせわしない。

 

一個一個の見せ方についても同じ。ナウシカとかラピュタとか、凄い名作だと自分は思ってるジブリ作品って、余韻を残したシーン移動が上手い印象がある。

 

もしかしたらポニョぐらいからのジブリの傾向かも知れないんだけど、ばっさばっさと場面を切り替えられちゃうことが特に序盤に多くて、もっとゆっくり見させて欲しい気持ちになった。

 

 あと、絵描きさん?ウィキペディアみたらアニメオリジナルのキャラみたいなんだけど、結局あの人の役割ってなんだったの?というのが疑問。

 あの絵だけ?だとそんなにインパクト与えることに成功してないし、なんかとりあえずこういうキャラが欲しいから出しとけ、みたいな感じはちょっと嫌い。

 

 

 でも全体としては上手くまとめられてる作品だと思います。『ゲド戦記』も一応こないだみたんだけど、あれはいいとこ原作の名前で売名した三流映画、ぐらいなもんなんで、吾朗さん凄い頑張ったのでは?