寝楽起楽

ネタばれには配慮しない、感想/紹介ブログです。毎週1回更新 +α を目指したかった。

『ちくま日本文学005 幸田文』を読んで思うこと

 小中学生のころに読んだ、

 

 雪が降るのを最初に深々と、と表現したのはどこのどいつだろう。

 という、とある小説の出だしを私はずっと覚えている(ずっと恩田陸の『ネバーランド』だと思ってたんだけど、確認したら違った。あさのあつこの『バッテリー』とかかも)。

 

 当時の自分は同じ本を何度も何度も繰り返し読む習慣があり、だからこれも最低5回は多分読んでいた。その作業は決して苦痛ではなく、そのたびに新鮮に物語に入っていたのだが、ある時また読み始めようとして、私はふとこの出だしにひっかかってしまった。

 

 「しんしんと」について思いめぐらす思春期の少年、なんて、現実には実際にいなくないか?

 

 一回そう思ってしまうともう駄目だった。この疑問は、しかも他の全ての小説にも当てはまる爆弾である。以来私は物語を読んでいても、どこか冷めた私が常に居ることを自覚しなければならなくなった。

 

 年月が経つにつれ埋もれていったこれが再び姿を現すのは、大学でバイトを始めてからだった。

ある日、読書を好んでいた生徒と受験後にあった時のことである。

 彼は「最近は小説ではなく、ノンフィクションばっかり読んでる」と私に告げた。その時私は何の不自然さもなく、「事実は小説よりも奇なりというもんな」と思い、またそう思う自分に驚きを覚えた。そうして記憶の糸を手繰ってみて、上の記憶に思い当たったのだった。

 

 かつては純粋に読書を楽しんでいたはずであった。それがその時には、現実の経験の方が上等と思い、しかも小説を読むのにどこか後ろめたさすら覚えていたかもしれなかった。爆弾は消えたわけではなかった。ずっとそこにあって、ただそれを見ないふりをしていただけであった。

 

 しかし本著を読んで、私はその解体に成功できたような気がしている。

 

 「いらないやつが生れて来た」と父がつぶやいたということを、やはりこのおもとから聞かされ、物心ついてから何十年のながい歳月を私はこのことばに閉じ込められ、寂寥と不平とひがみを道連れにした。臨終を数日後にして父は、輝きわたって私を照らした。皎々たる光を浴びて呪うべきこの道連れはあとなく影を消し、陽のなかに遊ぶ裸身の幼子のように私ははじめて歓喜し、円満であった。姉や弟とともに私もまた愛子であったのだ。この幸福な確信を形見に残してくれて、父は世を去ってしまった。

(本著「みそっかす」p252-253)

 

 軽やかでいてしめった文章を書く人だ、という印象はずっとあったが、本書に収められた作品は、文さんの深い情が全体に流れてい、一つ一つの文章に胸を打つ表現がある。

 特に私の中に残ったのは、「髪」という話である。

 

 ながいつながりだった。それが、死んで、斬れて、私だけがのこった。すぽんとした、へんな気もちだった。

 順ならば親がさきへ死ぬのはあたりまえなはずだけれど、そこんところがどうもすっと来なかった。どうしてははの方がさきへ死んだんだろう。なぜ私があとへのこったんだろう。昔っからきつい人で、なんでも私のかなう段でなかったものを、なんのわけでこんなに脆く折れてしまったんだか、なんとなく信じがたく腑に落ちかねた。一ツには数年来離れた土地に暮らして会う折もなくいたせいもあろうけれど、死別のかなしみには実感が来ず、遠い感じばかりがしていた。それはなにかに似ている感じだった。よく知っている感じでいて、なかなかに思いつかず、日かずがすぎてから、ああ雪だなと分かった。雪が突然ざざっと庇をすべり落ちた、あれによく似ていた。

(「髪」 p51-52)

 

 幸田露伴は、幸田文の生みの親である幾美子と死別後、文8歳の段になって、児玉八代を新たに妻に迎えた。その結婚生活は幸せであったと一括りにするにはあまりにもねじくれていた(このあたりは「みそっかす」に詳しい)。

 「継母の子」という立場はそれだけで卑下されるものでもあり、文さんの八代への感情は愛憎半ばしている。「髪」はそれが率直に表現された作品であるが、私が引きこまれたのは、無論、「雪」というキーワードに、冒頭の少年の姿をふと思い起こしたからであった。

 

 おやと思う。それが動いたようだった。風か?熟視し、それはほんとうに動いたのだった。陽に光りながら、ちょうど癖になった個処で、ごくわずかに浮いて反るもののようだった。かたまりの中からほかのを引き抜いて、ちょうどそこにあった白い包み紙の上に置いてためすと、毛はやっぱり陽を吸うと夢のようにふわっと動き、若い女の伸びをする姿がとっさに聯想された。――火鉢のそばとか箪笥の隅とか――窮屈にころりとして――ほんの一ト眠りだけが深く寝入って――ふっと醒めて――本能的に頭だけを擡げて――見まわして――ずずっと背中で摺って畳を漕ぐ――幾分胸や腰が浮いて、爪さきから指までの線がぎゅうっと張る――び、び、び、と快さが走る――力が落ちて胸のカーヴが元のやわらかい平安にしずまる、そんな姿をまどわせて毛のかがまりは伸びをした。

 若かったははの寝姿、夏などよく簾の蔭で寝入っていたその姿、竹に雀のゆかたを着ていたっけ。

(「髪」 p57)

 

   本書は恐らくは意図的に小説とエッセイがまぜこぜに収録されており、またエッセイも幾分か自伝の様相を帯び、どの作品も物語とも随筆とも言えないような余韻を残す。

 

 そのははは、くるっと畳に手をついて、むこう向きに起きあがった。神に手をやって、にこっとこちらへ振り向いた。機嫌のいい時にする、おどけた笑顔でこちらを見ている。「よかったわあたし、もうままははじゃないもの。」そういった。いいえ、そう聞こえたようだった。いいえ、それも違う、私がそう云わせたんです。でも、声はほんとうに天から降ってきた。ほんとうに。

(「髪」 p57-58)

 

 露伴のしつけは厳しく、当時でさえもやや時代錯誤の感すらあり、しかしそれはこうした文の中に結実している。此処を読んで私は、 文さんがその名前の通り、文章の中をそのまま生きているような人であるように思えた。

 

 文さんは本当に母の姿を見たのだろう。この本に収められているどれも、私はほんとうのこととして受けいれた。それが物語かどうかは関係なかった。ようやっと幼いころに再び戻れたような気がした。そして今、私はようやく、「しんしんと」の少年も「ほんとう」として受け入れられたように思う。

 

以上。

 

 

幸田文  (ちくま日本文学 5)

幸田文 (ちくま日本文学 5)

 

 

母国語に潜む嘘:『ことばと国家』 田中克彦著 岩波新書 1981年

 私はここに報じられたゲンダーヌさんの行動はもちろんのこと、また、それを支持して、ひろく世に知らせるために記事にした、この文章の書き手にも共感する。(…)それだけに、「ゲンダーヌさんの母国語」にはめまいを感じるほどの当惑をおぼえたのである。

 ゲンダーヌさんは北川源太郎という日本名の持ち主であるから、たぶん日本国籍の人であろう。だとすれば、ゲンダーヌさんの母国は日本で、その母国のことばは日本語であるから、オロッコ語のことを母国語といってしまってはまずいのである。ゲンダーヌさんのことばは、この「母国語」とはするどく対立するところの非母国語、非国語であるからこそ、ここにその訴えを報じる意義があったのではなかったか。(…)すなわち、ことばはすべて国語であると考える日本人の考え方に根深く宿っているこの盲点こそは、この記事がまさに指摘してきた、「日本を単一民族国家としてきた日本人の意識」をありのままに示しているのである。

(p43)

 

 1981年に書かれたこの本の時代から三十年余りを経て、我々はどれだけ成長できただろうか?

 

ことばと国家 (岩波新書)

ことばと国家 (岩波新書)

 

 

〇内容要約

 「俗語は文語のくずれ」なのではなく、俗語こそが文語の大本となるものであり、また文法に依拠した書きことばはすべて、その性質上不自然なものである。「国語」という概念もまた、ことばそのものの本質からは外れたものであるが、しかし近代はもはや政治の概念をなくしては、言語について語ることは出来ない。筆者はこの前提に立ったうえで、「俗語」を称揚し、その発展を促す。

 

〇感想・考察

 私の実感では、「日本は単一民族国家ではない」という言説は、ある程度は世の中に浸透できているように思う。しかし一方で、「ことば」というものについては、十分に理解が進められているとはいいがたい。

 

我々が普段一般的に耳にするのは「東京弁」とでもいうべきものに過ぎない、というところまでは知っているかもしれない。では「俗語」と「国語」の違いは?「方言」と「標準語」の違いは?と聞かれていくと、答えに窮する人も多いのではないだろうか。

 

 本書はそうした疑問を解消し、「国語」というものは政治の中で生み出されてきたものにすぎないという事実を、ヨーロッパの歴史から辿りつつ明らかにしてみせる。

またそれは同時に、私たちが立脚しているこの「日本語」という言語の影を暴き、さらにはことばそのもののあり方についての議論にも繋がっていく。

 

 私が本著を読みながら思い出したのは、「Lang-8」というサイトでのある経験であった。

 

 これは様々な外国人たちと、お互いがお互いの学びたい言語で文章を書き、添削をしあうことで言語習得を目指すことを目的としたサイトである。

 元々は英語学習のために登録したものであったが、何分無精のため当の目的は忘れ、むしろ興味深かったのは外国人の日本語を添削することであった。

 

 ある時私が出会った文章は、旅行先で出会った日本人の友人に対しお礼を言うためにかかれたものだった。何気なく読んだそれは、ひらがなばかりでしかも脱字も多く、到底「正しい」日本語とは言えないものだったが、衝撃を受けたのは、その中に唐突に、「薫風のみぎり」という単語が差しこまれていたことである。

 

 5月最終週の時候の挨拶に使われるものであるらしかったが、寡聞にしてこの単語を知らず、そしてまたこれが入っていることによって、私は全体の文章に不思議なおかしみが生まれているような思いに襲われた。以来私は添削するのを辞めた。「文章を正しくすること」に対し、疑念が湧いたからである。

 

 例えば私は今、「である」調、かつあえて単語を選びながら文章を書いているが、別にこれが突然砕けた口調になっちゃったって本来は全然かまわないはずなんですよね

(以下、これでいきます)。

 

 私のブログは口調が安定しないことが安定した特徴ともいえるんですが、これは意識的にそうしているというわけではなく、自分の感覚的に気持ちいいか、気持ちよくないかが大きな一つの基準になってます。まあでもさすがにここまで唐突に切り替えてるのは初めてかもしんない。

 

 論文とかレポートとか、なんでもいいんだけど、それなりの場にだす文章は、それなりの格式が求められる、ということは暗黙の了解としてあって、いつの間にか絶対の規制のようにして機能しているような錯覚に陥り、あれらに乗っている文章が「国語」であるかのように思ってしまう、そういうことはあると思います。

 

 でも広い目で見渡してみると、実はその中で遊んでる人って一杯いるんですよね。それに私はこうしてブログを書いているなかで、別にこれが「国語」ではないとも思ってない。だって日本語で書いてるし。

 

 「正しさ」という観点でみたとき、ネットの中で受ける文体みたいなものも多分存在はしていて、多かれ少なかれそこに寄っていってしまうようなことはあると思います。

 

 でも別にネットだし、自由に書いていいんだし。もっとぶっ壊れたような文章がもっと一杯あっても全然構わない。ブログだからといって長文を書く必要もないし、ツイッターで字数ギリギリまで吐き出すことをためらう必要もない。

 

 ことばとは国境を越えた自由なものである。というような思想を私は本著から受け取ったし、それはとても大事にしていきたい感覚だと思ってます。でも、こんな単純はな話でも多分ないような気がするので、詳細は本著を読んでください。

 

以上。

 

ハンター必携:『クマにあったらどうするか:アイヌ民族最後の狩人』 語り手・姉崎等 聞き書き・片山龍峯 ちくま文庫 2014年

 CAPCOMが送る大人気ゲームシリーズ、『モンスターハンター』の最新作が発売されて一か月弱が経ちました。皆さん、充実した狩り暮らしを送っていますでしょうか?

 

 ゲーム脳が取り沙汰されたのは一昔前のことですが、中にはコントローラーを握りながら、「自分もこんな狩りを実際にしてみたい!」と思う方もいるかもしれません。

しかし、人体構造上不可能なところから身の丈以上の大剣を抜刀し、大型モンスターと同等に渡り合い、突進を食らっても死なず、高所から落ちても無傷……。そんなゲームの中のキャラクターは控えめにいっても「超人」といって差し支えなく、只の人である私には無理だ、と諦めてしまってはいませんか?

 

 そんなあなたにも、そして狩り暮らしを送るすべての人におすすめしたいのが、この

『クマにあったらどうするか:アイヌ民族最後の狩人』

 

クマにあったらどうするか: アイヌ民族最後の狩人 姉崎等 (ちくま文庫)
 

 

 タイトルの通り、本書はアイヌとの混血である姉崎等さんが、十二歳~七十七歳までの狩人人生を振り返りつつ、クマとの対峙の仕方を教える構成となっています。

 

 まず注目してほしいのが、その人生の半分以上を狩りに費やしてきた姉崎さんの、膨大なサバイバル知識。

 

 日高とか十勝とかああいうしばれ(寒さ)の強いところに冬に行って、そこで川に落ちて長靴の中に水を入れたとする。みんな靴を脱いで靴下を絞って履くでしょう。それは駄目なんです。間違ってもそんなことしたら駄目なんです。すぐに凍傷になってしまうから。 

 そういうしばれの強いところでは、長靴の中の水を抜かないでドボドボっと長靴の中で水がたまっていても、そのまま歩くと、水が靴の中で暖かくなってくるんです。足が重い軽いの理屈でなく生きようという信念でやるんです。

(p83)

 

 狩人になりたい人には為になる知識が満載です。

 

 また同時に、本書は「狩人として生きる心構え」や、「良い狩人となるためにはどうすればよいか」も同時に教えてくれます。

 

 それでもハンターは銃を向けて落として、ものの命を取ってきて自分たちの生活を潤しているんだから、感謝の気持ちは持たなければならない。クマを招待するにしても人間と同じで、うわべだけの招待だったらクマも嬉しくはないですよ。心の良い人の家に招待されたいという話があるのは、人間の心を正しく運べよ、とアイヌは考えたからだと思います。

(本著p208)

 

 逆鱗や宝玉が出ないのは、もしかしたら気持ちが足りないせいかもしれない……。

 自分の狩り暮らしを、本を読みながら反省しませんか?

 

 姉崎さんにとってクマとは「師匠」であり、「隣人」であり、決して倒すべき敵なんかではありません。山を知り、クマを知り尽くした人の語りは、私たちが如何に山を知らないかを同時に浮き彫りにしてくれます。

 

 規制をよしんば作っても、クマの方は守るかもしれないけど、人間の方は守らないでしょう。

(本著p298)

 

 またアイヌとの混血(チポエップ)という立場であり、また自らをアイヌ民族であると公言しているところから、本書は同時にアイヌについて勉強できる読み物ともなっています。なので当然、ハンターではない皆さんにもおすすめです。

 

 ハンター暮らしに焦がれる皆さんも、本書を読めば必ずやそのゲーム脳と、それからクマに対する誤ったイメージが粉砕されることでしょう。

 

 以上。 

エンジョイ勢からガチ勢まで:『マヤ・アステカ不可思議大全』 芝崎みゆき 草思社 2010年 

 突然ですが皆さんは、歴史が好きでしょうか?

 

 「受験の時にやったきりで、もう全く覚えていない」

 「小ネタは楽しかったけど、人名やら年号やら覚えるのは苦手だった」

 

 おそらくはこうした人が大半で、大人になってから改めて本格的に勉強しようと思っても、

 

 奈良時代後期の政治的変動のなかで、称徳天皇が死去して専権をふるった道鏡が追放されたのち、式家の藤原百川らの策謀によって、それまでの天武天皇系の皇統にかわって天智天皇系の白壁王(施基王子の子)が即位し、光仁天皇(在位770~781)となった。

(『詳説日本史研究』 p90)

 

 大半の歴史本はこうした硬い記述ばかりで、面白いは面白いんですが、受験・試験ブーストがかかってないと読み通すのは厳しい、と感じる方が多いのではないかと思います。

 

 そんな皆さんに今回お勧めするのが、この

「古代マヤ・アステカ不可思議大全」

 

古代マヤ・アステカ不可思議大全

古代マヤ・アステカ不可思議大全

 

 

 本書の最大の特徴は、なんといっても全編手書き&これでもかとばかりに差しこまれる独特の絵の数々!

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 (本著 p26-27より)

 

 作者を擬したキャラクターが適度につっこみをいれてくれることにより、学術書とはまた一線を画した味わいになっています。

 

 作者が研究者ではないために「中身は結構いい加減なんでしょ?」と疑ってしまう貴方も安心!なんと5ページに渡る参考文献に裏打ちされて本書は書かれており、メソアメリカガチ勢の皆さんにも安心してお読みいただけます。

 

 何より本書が教えてくれるのは、「マヤ・アステカの歴史」以上に、「歴史の楽しみ方」そのものです。

 生贄の儀式に憤り、唐突な神話の展開に冷たい目を送り、下ネタに笑い、歴史ロマンに胸を躍らせる。

 どんなところからも「面白さ」を見出す作者に導かれ本書を読み終わったとき、きっとあなたは冒頭に挙げたような学術書も、楽しく読み通せるようになっていることでしょう。

 

 「でも、マヤ文明とか興味ないし~~」という人には、芝崎さんの 

古代ギリシアがんちく図鑑

古代ギリシアがんちく図鑑

 

 

古代エジプトうんちく図鑑

古代エジプトうんちく図鑑

 

  

 こちらをお勧め!

 

 以上(趣向を変えてテンション高めで書いてみましたが、なるほどやってみると楽しいもんなんですね)。