寝楽起楽

ネタばれには配慮しない、感想/紹介ブログです。毎週1回更新 +α を目指したかった。

青年期だけがない:『春日井健歌集』 春日井健 短歌研究文庫 2005年 

 大空の斬首ののちの静もりか没ちし日輪がのこすむらさき

(p8)

 

 いきなりこれだもんな。 

春日井建歌集 (短歌研究文庫 (18))

春日井建歌集 (短歌研究文庫 (18))

 

 

〇内容

 『未青年』『行け帰ることなく』『夢の法則』から一度短歌を辞め、父の死を機に四十代を過ぎて復帰した以降の『青葦』『水の蔵』『友の書』『白雨』まで7歌集、1750首を収録。

 

〇感想・考察

 短歌の何を見るべきか?という部分について、とても参考にさせていただいている『「詩客」短歌時評』のサイトに、こんな記事がある。 

 

blog.goo.ne.jp

 

 ↑で取り上げられている、最近の若手歌人たちに対する川野里子さんの批評が面白いので引用。孫引きごめんなさい。

 

 瞬間の感覚を突出させたものの背後に息づくものを現すことなく、瞬間を瞬間としてツイッター的な瞬間世界に投げ込むことによって一つ一つの作品が閉じられているのではないかと思うのだ。その作品の瞬間の完結性がたったひとりの「私」が背負うべき文脈の成立を難しくしているということはないのか。(中略)何か見えないものが苛酷に彼らをそうさせているように思えてならない。

 

 「私が背負うべき文脈」、て言葉のセンスがまずすごい。

もし自分の文章を誰かに批評してもらった時に「う~ん、この文には君の自我が成立してないね!」とか言われたら、あまりにも高度すぎてついていけずに穴掘ってその奥で溶けて消えたくなると思う。

 

 始めてこの記事読んだ時はいまいちわからなかったけど、今回春日井健さんの歌集、特に『未青年』を読んでいると納得できるところがあった。例えば、

 

われよりも熱き血の子は許しがたく少年院を妬みて見をり 

 

 こんな自我しかないような歌が平然と並んでたり、そうでなくても歌から春日井さんがその時何をしていたか、何を感じていたかが(僕の知っている)現代短歌と比べるとずっとわかりやすい。解釈とかガチャガチャやらなくてもいい感じ。

 

 逆に言うと、春日井健さんという人そのものが好きでなければ、同時に作品もまず合わないだろうという気がする。

そういう意味でいえば、昔の方が歌人として生計を立てるハードルは非常に高かっただろう。今は言葉遊びも許されてるし。

 

 俵万智さんの『短歌を詠む』の中で、春日井健の後期歌集はこう批評されている。

 

 青葦の茎をうつせる水明かり風過ぐるときましてかがよふ

 死ぬために命は生るる大洋の古代微笑のごときさざなみ

 

 『夢の法則』以来十年ぶりに出版された『青葦』より引いた。作者の自選五十首にも入っている歌である。なめらかで美しい作品だ。が、かつての危険とも言える強い自我のにおいはここにはない。(…)彼特有の毒は薄まってしまった。早くも春日井健は守りに入ってしまったのだろうか。だとしたら、残念だ。歌の世界でも、もっと放蕩してほしいのに、と思う。

俵万智『短歌を詠む』 p185)

 

  これを先に見てから本著を読んだのでどんなもんかと思ってたんだけど、『青葦』以降の歌集が優れていないかと言われれば決してそんなことはなく、まっとうに成長してきた人間が表されているように感じた。

 

 それを「毒が薄まった」「もっと放蕩してほしい」というのは、言うなれば「私の思うとおりに歪んだままでいてほしかった」ということでもあるんじゃないだろうか?

 別に俵さん批判とかではない。ただそれが求められてしまう世界ってすげえな、と思っただけです。

 

 いつもは短歌の本の感想書く時は好きな短歌コーナーを作るんですが、この歌集はそれこそ「文脈」ありきなところがある気がしたので、今回はやめときます。1750首から10首選ぶとか大変すぎるし。

気になる人は各自調べるか買ってください。

 

以上。

全文情愛:『恋文の技術』 森見登美彦 ポプラ文庫 2011年

四月九日

 拝啓

 お手紙ありがとう。研究室の皆さん、お元気のようでなにより。

 君は相も変わらず不毛な大学生活を満喫しているとの由、まことに嬉しく思います。

 その調子で、何の実りもない学生生活を満喫したまえ。希望を抱くから失望する。大学という不毛の大地を開墾して収穫を得るには、命を懸けた覚悟が必要だ。悪いことは言わんから、寝ておけ寝ておけ。

 俺はとりあえず無病息災だが、それにしてもこの実験所の淋しさはどうか。

 最寄り駅で下車したときは衝撃をうけた。駅前一等地にあるが、目の前が海だから、実験所のほかは何もない。海沿いの国道を先まで行かないと集落もない。コンビニもない。夜の無人駅に立ち尽くし、ひとり終電を待つ俺をあたためてくれる人もない。流れ星を見たので「人恋しい」と三回祈ろうとしたら「ひとこい」といったところで消えてしまった。どうやら夢も希望もないらしい。この先、君が何かの困難にぶち当たった時は、京都から遠く離れた地でクラゲ研究に従事している俺のことを思い出すがよい。

(本著p11)

 

 森見さんなのに主人公が京都にいない!!!!

 

 

([も]3-1)恋文の技術 (ポプラ文庫)

([も]3-1)恋文の技術 (ポプラ文庫)

 

 ↑80件以上リンク貼られてるとは。愛されてるなあ。

 

〇内容要約

 能登半島に研究のため飛ばされた悶々系大学生が友達と先輩と生徒と妹と森見登美彦(!)に手紙を書きまくる

 

〇感想

 実はこのブログで一番最初に読書感想をあげた本は森見さんの『ペンギン・ハイウェイ』であるということもあり、なんとなく勝手に親近感を抱いている。

 

 友達に宛てた章、先輩に宛てた章、という様に送り先ごとに章が分かれており、かつ手紙を送った期間は重なっている。そのため、ここで出てきたこれはあれか、みたいな行きつ戻りつするパズル的な楽しみもあるが、しかしそれをやったところで中身がクサレ大学生の文章というしょーもなさがどうしようもなく森見さん。

 

 憎めないキャラの造形の仕方は相変わらずピカイチ。

「みんなから手紙が届くぐらい慕われていて大変である」みたいなこと言ってるとこでは、「文通始めてるのほぼほぼお前からじゃねーか」と読者全員が突っ込みをいれたことだろう。

この人の作品に出てくるような生活に憧れて京都に旅立っていった人たちを何人も観測しているが、それぐらい影響を与えてしかるべき人物の立たせ方だと思う。

僕は学力が足りんくてクサレ大学生にすらなれんかった。

 

 作中でガンガン森見登美彦ご本人が登場してくるのに最初は笑ってたんだけど、ふとそこから一つ私的に重大な発見をした。

 

 『恋文の技術』に出てくる人物の大半は森見登美彦さんのファンである。彼の作品を読んでない人も出てくるが、しかし読んだら絶対にはまるようなタイプであろうと察する。

 

 つまり「作中の登場人物がその本を読んだら面白いと感じる率100%」ということだ。しかしこれ、実は森見さんに限らず他のいろんな作家さんたちに当てはまる法則なんじゃないだろうか?

 

 小説において「キャラが先か、物語が先か」あるいは「小説と現実の違いは何か」、「作者と作品は別物か」みたいな論争はしばしば行われる。

それをこの法則を踏まえて考えてみると意外とあっさり解決が出来そうな。そうでもないような。

 

 考えが全然まとまっていないのでここでは詳しく書かないし、どこかで詳しく書く予定があるかといわれると別にないけど、感覚的にはちょっと面白い話になりそうな気がする。

 

 以上。

 

『いつか春の日のどっかの町へ』『サブカルで食う』 大槻ケンヂ 角川文庫

 左手でマイクを握り、右手でギブソンJ-50のネックを握った。歌い続けながら、ギターを肩から外すと、いっそギタースタンドに立てかけた。そして身一つだけになってまた歌い続けたのだ。

 この信じられないギター弾き語りシンガーの、歌ってる途中でギターを置く、という驚愕のパフォーマンスに、観客たちは大爆笑し、手拍子を始めた。そして今やマイク一本の真夏のアカペラシンガーと化したFOK46は、夏の太陽の下、観客達の手拍子のみで「踊るダメ人間」を歌いきった。

 歌い終わると嵐のような拍手が僕を包んだ。

 うれしかった。

 グッと来た。

 ギターを始めてよかったとあらためて思った。

 ギターを弾くのを途中でやめちゃったというのに、だ…それなんか、根本的に間違ってないか?

(『いつか春の日のどっかの町へ』 p129)

 

 こことか声出して笑った。

 

 

いつか春の日のどっかの町へ (角川文庫)

いつか春の日のどっかの町へ (角川文庫)

 

 

 

 

 

〇要約

 自分を表現するには音楽という手段しか身近になかった 、という消極的理由でバンドを結成、楽器は何もできないからずっとボーカル一本で通してきた大槻ケンヂが40を過ぎてギターを始めた経緯と経過→『いつか春の日のどっかの町へ』

 バンド、テレビ、小説、様々な分野で活躍してきた大槻ケンヂが「サブカル」になりたいくん/ちゃんに教える、彼の人生の渡り方→『サブカルで食う』

 

〇感想

 筋肉少女帯とか大槻ケンヂと絶望少女たちとか名前は知ってたけど、いまいち自分には合わんと避けて通ってたとこがあった。こんな面白くかっこいい方だったとは。ケンヂさんのことすげえ好きになった。

 

 特に『いつか春の日のどっかの町へ』の「ミルクと毛布」の話は読み終わってすぐ『パナギアの恩恵』のアルバム買ってしまったぐらい良かった。ほかにも良い曲あったら教えてください。自分でも探します。

 

 後サブカル業界の大変さも見えた気がする。まあ当たり前だけど本当に何でもかんでも好きにやれるわけではないわな。

結局は「悔い改めて遊んで生きちゃう」ことだとケンヂさんは語ってるけれども、それでも色々とつらいこともあるはずで、そん中で「遊んじゃう」といえるだけの強さがあるからこそ今の立場があるんだろうと思う。

 

 元々『サブカルで食う』はこちら

「何者にもなれない」あなたに読んでみてほしい、「何者かになってしまった人」の10冊 - いつか電池がきれるまで

 で紹介されてて面白そうだと思って読んだんだけども、↑でも引用されてる「表現するにはプロのお客さんにはなってはいけない」てとこで一つ思い出したことがある。

 

 ニコニコ動画が将棋の新しいタイトル「叡王」を作ったことまでは知ってる人もまあまあいるかと思う。

その叡王の座を獲得するための、「第三期 叡王戦」の決勝7番勝負が今年4月から始まるんだけども、トーナメントを勝ち上がって決勝に進んだのは誰か、皆さん名前言えますか?

 

 破竹の勢いで去年29連勝をなしとげ、現在も13連勝してるという将棋界の彗星藤井聡太6段でもなければ、永世七冠達成し国民栄誉賞を受賞した羽生二冠でもなく、かといって現タイトルホルダーの佐藤天彦名人や渡辺明名人かと思いきやそうでもない。

 

 じゃあ正解は誰かというとこの二人↓

 

 このPVでピアノ弾いてる(上手で笑う)「格調」こと金井恒太六段vs「増田or前田」こと高見泰地六段。この二人が決勝に上がると予想していた人は多分誰もいなかった。

 

 前置き長すぎたが、このPVの4分20秒~、高見泰地六段が自嘲の笑みを浮かべながら「プロの観る将って呼ばれて、」と言うその表情を是非一度見てみてほしい。

 

 観る将っていうのも将棋知らん人は聞いたことない単語だと思う。

サッカーに熱をあげるおばちゃんが実際にサッカーを始めることはないのと同じく、将棋を実際に指さないけど将棋観戦はする人たちのことをそう呼ぶ。

彼らはプロの将棋解説や雑談や昼食などを見ることに面白みを見出す。僕もちょっとしたラジオの代わりになんとなく放送を流したりするので、気持ちはとてもわかる。

 

 いうまでもないが高見泰地六段はプロである。人当りもよく、丁寧な仕事ぶりにファンからの人気が高い。しかしこれまで、タイトルには縁がなかった。

 だからこそ「プロの観る将」などと称されてしまったわけだが、しかしそう揶揄された時の悔しさはいかほどのものであっただろう。

 

 あることを実践しつづけプロになる以上、どんな分野であってもそこには矜持がなければならない。『サブカルで食う』も、一見は「サブルなくん」「サブルなちゃん」への応援にみせかけて、大槻ケンヂさんのある種の覚悟を自然に見せつけられる本なのではなかろうか。

 

 以上(しかし一方で「60になったけどまだデビューした気がしない」とか言っているみうらじゅんという人もいる。それはそれですげ~~)

三者三様:『読んじゃいなよ!』 高橋源一郎編 岩波新書 2016年

 わたしが大学に入ったのは一九六九年。卒業、ではなく、除籍になったのが一九七七年。その八年の間に、わたしは、数えるほどしか授業に出ませんでした(十回も行ってません)。

 なので、ひょんなことから、大学で教えるようになったとき、というか、学生たちを前にして、なにかをやらなきゃやらなくなったとき、わたしは、思わず、こう叫んだのです。

 「どうしよう、なにを教えていいかわからない!っていうか、「教える」って、どういうことだかわからない!」

(…)

 わたしがやったことのなかでいちばんの傑作(?)は、一年生の授業で、とりあえず、一時間ほど黙っていたことでしょうか。

 学生諸君は、びっくりしたようでした。いや、恐怖を感じた?でも、だれもなにもいわずに、静かに座っている。先に音をあげたのは、わたしの方です。

 「ねえ、きみたち。ぼくは、こうやってただ黙っているんだけど、どうしてだか、訊かないの?」

 すると、ひとりの子がいいました。

 「なにか理由があるのかと思って。先生がなにかをおっしゃるのを待っていたんです」

 

 とりあえず、なにかがはじまりました。

(本著p3,p7) 

 

 良い意味で遊んでいる本なんだけど、タイトルで損をしている気がしなくもない?

 

 

 

 

〇内容

 明治学院大学国際学部高橋源一郎ゼミで

鷲田清一『哲学の使い方』

長谷部恭男『憲法とは何か』

伊藤比呂美女の一生

(全部岩波)

 をそれぞれ数か月かけてじっくり読みこんだ後で著者さんお呼びして講義してもらった

 

〇 感想・考察

 内田樹さんにめちゃめちゃはまってた時期に、大体一緒の界隈の人として覚えたのが平川克実さん、釈徹宗さん、安田登さん、橋本治さん、春日武彦さん、高橋源一郎さん、鷲田清一さん。

 

 このあたりの人々に共通するのは一見人当りが良いということで、文章も気持ちよく読ませるものを出してくる。

特に内田さんは凄くて、一見何の関係もなさそうなところから結論に至るまでの道筋のつけ方なんかはその真偽を問うのを忘れさせるぐらいに華麗。

「聖書の人」とか「aikoの人」とかはてな界隈にもいらっしゃるけど、ああいう文章にあこがれる人は内田樹さんのも(政治的信条が合う合わないとかを別にすれば)気に入ると思う。話逸れた。

 

 高橋源一郎さんについていえば、敵味方を区別しないというか、年老いてからなのかどうかはわからないけれども、素直な人だという印象が強い。

 

 たとえば二人目に挙がっている長谷部さんは、特定秘密保護法案に賛成を示した数少ない憲法学者の一人として知られている。

高橋さんは、法案反対派のリストに名前を連ねていて、普通であればある程度の反感を持って長谷部さんのことを見そうなところ、「彼の文章はカッコいい」とか書いちゃう。

その鷹揚さ、懐の広さがなんとなく全体に行き通っていて、ゼミ生の人たちも安心して発言している感があった。

あと皆真面目で、ちゃんとそれぞれの先生の話を聞き、咀嚼し、発言しているのが当たり前であり当たり前に偉い。でもそれも、高橋さんがまず率先して面白がって話を聞いている態度があってこそだと思う。

 

 それぞれの講義について感想を述べると、鷲田さんは話上手で安定した面白さ。

 

 深さについて言うと、「深さ」って通常、垂直方向で潜っていくっていうイメージなんですね。その底に何があるかとか、根本・根源に何があるかって。そして「深み」に行くほどすごいことを言っているかのように感じます。

 「無」とかを語りだしたりする時です。根底にあるそういう幻想をつぶしていきたい。基礎のさらに基礎へと遡っていく「究極の基礎づけ」という哲学の理念を僕がずっと批判しつづけてきたのもそういう思いがあってのことです。深い、ていうより、むしろ底がないことを大切にしたい。そこには底抜けになっていることの大切さがあると思う。僕はその深さのイメージを垂直から水平に変えたいと思っています。それは、深い森の中にあるような、最終的には理解が届かない他者たちの存在の深さとでも言うべきものです。

(p106)

 

  一部の人が掘り下げていくんではなく、哲学は万人に開かれているものだよ、ていう話だと多分思うんだけど、こんな語り口でそれを表現できる人はなかなかいない。

 

 

 長谷部さんの講義は全く門外漢の世界なので勉強になった。

憲法学者によっても色々タイプがあって、長谷部さんの興味対象は(こんな本に登場するぐらいなので)その中でもだいぶ変わってるぽいけど、一個憲法について視点を持てただけで凄い収穫。

 

 憲法は何のために必要かというと、民法とか刑法とか、皆さんが日常で触れるはずの、日常生活をささえているはずのいろいろな法令があります。で、普通はそれで充分なんです。そういう法令さえあれば。憲法なんてよく分からないものがなくても。特に憲法の中でも、基本権条項ですよね。国民の権利及び義務に関する条項とか。何のために必要なのかというと、そういう通常の法令通りに裁判所に来た紛争を解決していると、良識に反する結論になってしまう時とか、どう考えてもこれはおかしいという結果になってしまうという時に、初めて出番が来るのが憲法です。

 何のために出番があるかというと、良識に戻れというためです。

(本著p187)

 

 「良識ってなんぞや」と思った人は本を買おう。

 

 伊藤さんはもう存在そのものが強烈すぎる。

文章からでさえこちらの自我をふっとばしてくるようなエネルギーがあるので、実際に講義を受けた人はなおさらすごかっただろう。

 

 とにかく目指すのは、変人だと思いますね。どれだけ変人になれるか、どれだけ人と違えるか。実際にそれは楽かっていったら、楽じゃないのね。やっぱり日本人って本当に枠があるから楽なの。枠の外に住もうと思うと、それなりに自分で自分の何か、自分ってものを信じなくちゃいけないし、自分が信じられないし、そこでゆがむんですけど。まあ五〇になってごらんなさい。苦労して五〇になってみたら、私はね、そうやって生きたほうが自分らしいっていうふうにね、生きていられると思うんですよ。五〇になったら七〇はすぐですからね。七〇になったら八〇はすぐだし。

(本著p298)

 

 これの前に、若いころは滅茶滅茶にぶっ壊れる寸前に居たのだろうと察せられる語りを聞いているおかげで、なおさらここは胸に響くもんがある。 兎に角まず五〇。なるほどなあ。

 

 ほんとは引用をするときって、引用した文が「従」でその他が「主」になってなきゃいけないという決まりがあるんだけど、それぞれがとても太刀打ちできない人なので、「主」にはちょっとなれそうもない。なるほどとしかいえねーんだもん。突っこみが出来ん。

 

 かといって引用文を削るのも主義に反するというか、自分が本を選ぶ時の基準って9割9分は語り口にあって。

裏表紙にあらすじとかが載ってる本ってあるけれども、内容を知るには確かに便利なんだけど、一方でストーリーをそれで勝手に見越してしまって結局買わないってこと、あるあるネタで通じると思う。

 

 だから大体は冒頭を読んでみて面白そうだと思ったら買う、もしくは自分の好きな誰それさんが紹介してたから信じて買う、てのが最近の手の出し方で、後者には狙ってはなれないとしても、前者を皆さんに見せるきっかけぐらいにはなりうるんではないかというのが引用文をブログに書き始めたきっかけなんすね。

 

 四人それぞれタイプも違うけど、引用した文の中のどっかに面白さを感じてくれたんであれば、読んでみて損はないということだけはとりあえずお伝えしておきたい。

 

 とかいってたら一応分量的には主になれたかな。これで終わります。

 

以上。