大空の斬首ののちの静もりか没ちし日輪がのこすむらさき
(p8)
いきなりこれだもんな。
〇内容
『未青年』『行け帰ることなく』『夢の法則』から一度短歌を辞め、父の死を機に四十代を過ぎて復帰した以降の『青葦』『水の蔵』『友の書』『白雨』まで7歌集、1750首を収録。
〇感想・考察
短歌の何を見るべきか?という部分について、とても参考にさせていただいている『「詩客」短歌時評』のサイトに、こんな記事がある。
↑で取り上げられている、最近の若手歌人たちに対する川野里子さんの批評が面白いので引用。孫引きごめんなさい。
瞬間の感覚を突出させたものの背後に息づくものを現すことなく、瞬間を瞬間としてツイッター的な瞬間世界に投げ込むことによって一つ一つの作品が閉じられているのではないかと思うのだ。その作品の瞬間の完結性がたったひとりの「私」が背負うべき文脈の成立を難しくしているということはないのか。(中略)何か見えないものが苛酷に彼らをそうさせているように思えてならない。
「私が背負うべき文脈」、て言葉のセンスがまずすごい。
もし自分の文章を誰かに批評してもらった時に「う~ん、この文には君の自我が成立してないね!」とか言われたら、あまりにも高度すぎてついていけずに穴掘ってその奥で溶けて消えたくなると思う。
始めてこの記事読んだ時はいまいちわからなかったけど、今回春日井健さんの歌集、特に『未青年』を読んでいると納得できるところがあった。例えば、
われよりも熱き血の子は許しがたく少年院を妬みて見をり
こんな自我しかないような歌が平然と並んでたり、そうでなくても歌から春日井さんがその時何をしていたか、何を感じていたかが(僕の知っている)現代短歌と比べるとずっとわかりやすい。解釈とかガチャガチャやらなくてもいい感じ。
逆に言うと、春日井健さんという人そのものが好きでなければ、同時に作品もまず合わないだろうという気がする。
そういう意味でいえば、昔の方が歌人として生計を立てるハードルは非常に高かっただろう。今は言葉遊びも許されてるし。
俵万智さんの『短歌を詠む』の中で、春日井健の後期歌集はこう批評されている。
青葦の茎をうつせる水明かり風過ぐるときましてかがよふ
死ぬために命は生るる大洋の古代微笑のごときさざなみ
『夢の法則』以来十年ぶりに出版された『青葦』より引いた。作者の自選五十首にも入っている歌である。なめらかで美しい作品だ。が、かつての危険とも言える強い自我のにおいはここにはない。(…)彼特有の毒は薄まってしまった。早くも春日井健は守りに入ってしまったのだろうか。だとしたら、残念だ。歌の世界でも、もっと放蕩してほしいのに、と思う。
(俵万智『短歌を詠む』 p185)
これを先に見てから本著を読んだのでどんなもんかと思ってたんだけど、『青葦』以降の歌集が優れていないかと言われれば決してそんなことはなく、まっとうに成長してきた人間が表されているように感じた。
それを「毒が薄まった」「もっと放蕩してほしい」というのは、言うなれば「私の思うとおりに歪んだままでいてほしかった」ということでもあるんじゃないだろうか?
別に俵さん批判とかではない。ただそれが求められてしまう世界ってすげえな、と思っただけです。
いつもは短歌の本の感想書く時は好きな短歌コーナーを作るんですが、この歌集はそれこそ「文脈」ありきなところがある気がしたので、今回はやめときます。1750首から10首選ぶとか大変すぎるし。
気になる人は各自調べるか買ってください。
以上。