寝楽起楽

ネタばれには配慮しない、感想/紹介ブログです。毎週1回更新 +α を目指したかった。

孤独に浸る人々:『千年の祈り』 イーユン・リー 篠森ゆりこ訳 新潮社 2007年

 このご先祖様の物語は、わが町の歴史上もっとも輝ける一頁だ。まるで夜空に華麗にひらめく一発の花火のようだ。だがあとには闇がのしかかる。まもなく最後の王朝が共和政体に倒され、皇帝が紫禁城から追放された。皇帝の誰より忠実な側近である最後の世代のご先祖様も、一九三〇年代には、彼らのほとんどは紫禁城周辺の寺院で貧しい暮らしをしていた。(…)それから短い共和制の時代があり、軍閥の時代があり、二回の大戦があった。どちらの大戦でも勝者側に居たものの、勝ち取ったものは何もなく、やがて内戦。ついに共産主義の勝利を迎えるのである。さて我が国における共産主義の勝利を独裁者が宣言した日のこと、わたしたちの町に住むある若い大工が、新妻のいる家に帰ってくる。

(本著p57-58)

 

 時代背景からして日本の小説とは当たり前に全然違う。

 

 

千年の祈り (新潮クレスト・ブックス)

千年の祈り (新潮クレスト・ブックス)

 

 

〇あらすじ

 共産主義国家の中で様々なものに繋ぎ止められ身動きができない人たちの話。

 

 〇感想・考察

 生まれる時代を、生まれる場所を間違えたと思いながら、それを声高に主張することは許されない苦しみをつづった、とも読めるし、一方で普遍の主題である人間の寂しさ、悲しさを描いているともいえる。

 

 読んでいて心楽しくもならず、また引きこんでくるような熱を持っているような文体でもないのに、つい自然と耳を傾けざるを得ない。

何となく物静かなおばあちゃんを連想するけれども、筆者はまだ40代らしい。

 

 「ちゅうごくで『修百世可同舟』といいます」誰かと同じ船で川をわたるためには、三百年祈らなくてはならない。それを英語で説明しようとして、ふと思う。言語の違いなどどうでもいい。訳そうが訳すまいが、マダムならわかってくれるだろう。<たがいが会って話すには――長い年月の深い祈りが必ずあったんです。ここにわたしたちがたどり着くためです」彼は中国語で話す。

 その通りだと、マダムはほほえむ。(本著p233)

 

  この辺の感覚とかはさすが歴史ある国。三百年祈る、とか全く想像もつかない感覚。

 

 しかしこれは同時に、人との縁を捨て去ることが出来ないという呪縛にもなりえ、本著ではそれに対し違和感を持ち、逃げ出していく若者たちも登場する。

 そしてそれはどっちが良い、悪いという次元ではなく、両方ともただ静かに語られていく。

 

 中国文学といえばいいのかなんなのか分類わけに困るけれども、良い本であることだけは確かである。

 

以上。

 

 

 

青年期だけがない:『春日井健歌集』 春日井健 短歌研究文庫 2005年 

 大空の斬首ののちの静もりか没ちし日輪がのこすむらさき

(p8)

 

 いきなりこれだもんな。 

春日井建歌集 (短歌研究文庫 (18))

春日井建歌集 (短歌研究文庫 (18))

 

 

〇内容

 『未青年』『行け帰ることなく』『夢の法則』から一度短歌を辞め、父の死を機に四十代を過ぎて復帰した以降の『青葦』『水の蔵』『友の書』『白雨』まで7歌集、1750首を収録。

 

〇感想・考察

 短歌の何を見るべきか?という部分について、とても参考にさせていただいている『「詩客」短歌時評』のサイトに、こんな記事がある。 

 

blog.goo.ne.jp

 

 ↑で取り上げられている、最近の若手歌人たちに対する川野里子さんの批評が面白いので引用。孫引きごめんなさい。

 

 瞬間の感覚を突出させたものの背後に息づくものを現すことなく、瞬間を瞬間としてツイッター的な瞬間世界に投げ込むことによって一つ一つの作品が閉じられているのではないかと思うのだ。その作品の瞬間の完結性がたったひとりの「私」が背負うべき文脈の成立を難しくしているということはないのか。(中略)何か見えないものが苛酷に彼らをそうさせているように思えてならない。

 

 「私が背負うべき文脈」、て言葉のセンスがまずすごい。

もし自分の文章を誰かに批評してもらった時に「う~ん、この文には君の自我が成立してないね!」とか言われたら、あまりにも高度すぎてついていけずに穴掘ってその奥で溶けて消えたくなると思う。

 

 始めてこの記事読んだ時はいまいちわからなかったけど、今回春日井健さんの歌集、特に『未青年』を読んでいると納得できるところがあった。例えば、

 

われよりも熱き血の子は許しがたく少年院を妬みて見をり 

 

 こんな自我しかないような歌が平然と並んでたり、そうでなくても歌から春日井さんがその時何をしていたか、何を感じていたかが(僕の知っている)現代短歌と比べるとずっとわかりやすい。解釈とかガチャガチャやらなくてもいい感じ。

 

 逆に言うと、春日井健さんという人そのものが好きでなければ、同時に作品もまず合わないだろうという気がする。

そういう意味でいえば、昔の方が歌人として生計を立てるハードルは非常に高かっただろう。今は言葉遊びも許されてるし。

 

 俵万智さんの『短歌を詠む』の中で、春日井健の後期歌集はこう批評されている。

 

 青葦の茎をうつせる水明かり風過ぐるときましてかがよふ

 死ぬために命は生るる大洋の古代微笑のごときさざなみ

 

 『夢の法則』以来十年ぶりに出版された『青葦』より引いた。作者の自選五十首にも入っている歌である。なめらかで美しい作品だ。が、かつての危険とも言える強い自我のにおいはここにはない。(…)彼特有の毒は薄まってしまった。早くも春日井健は守りに入ってしまったのだろうか。だとしたら、残念だ。歌の世界でも、もっと放蕩してほしいのに、と思う。

俵万智『短歌を詠む』 p185)

 

  これを先に見てから本著を読んだのでどんなもんかと思ってたんだけど、『青葦』以降の歌集が優れていないかと言われれば決してそんなことはなく、まっとうに成長してきた人間が表されているように感じた。

 

 それを「毒が薄まった」「もっと放蕩してほしい」というのは、言うなれば「私の思うとおりに歪んだままでいてほしかった」ということでもあるんじゃないだろうか?

 別に俵さん批判とかではない。ただそれが求められてしまう世界ってすげえな、と思っただけです。

 

 いつもは短歌の本の感想書く時は好きな短歌コーナーを作るんですが、この歌集はそれこそ「文脈」ありきなところがある気がしたので、今回はやめときます。1750首から10首選ぶとか大変すぎるし。

気になる人は各自調べるか買ってください。

 

以上。

全文情愛:『恋文の技術』 森見登美彦 ポプラ文庫 2011年

四月九日

 拝啓

 お手紙ありがとう。研究室の皆さん、お元気のようでなにより。

 君は相も変わらず不毛な大学生活を満喫しているとの由、まことに嬉しく思います。

 その調子で、何の実りもない学生生活を満喫したまえ。希望を抱くから失望する。大学という不毛の大地を開墾して収穫を得るには、命を懸けた覚悟が必要だ。悪いことは言わんから、寝ておけ寝ておけ。

 俺はとりあえず無病息災だが、それにしてもこの実験所の淋しさはどうか。

 最寄り駅で下車したときは衝撃をうけた。駅前一等地にあるが、目の前が海だから、実験所のほかは何もない。海沿いの国道を先まで行かないと集落もない。コンビニもない。夜の無人駅に立ち尽くし、ひとり終電を待つ俺をあたためてくれる人もない。流れ星を見たので「人恋しい」と三回祈ろうとしたら「ひとこい」といったところで消えてしまった。どうやら夢も希望もないらしい。この先、君が何かの困難にぶち当たった時は、京都から遠く離れた地でクラゲ研究に従事している俺のことを思い出すがよい。

(本著p11)

 

 森見さんなのに主人公が京都にいない!!!!

 

 

([も]3-1)恋文の技術 (ポプラ文庫)

([も]3-1)恋文の技術 (ポプラ文庫)

 

 ↑80件以上リンク貼られてるとは。愛されてるなあ。

 

〇内容要約

 能登半島に研究のため飛ばされた悶々系大学生が友達と先輩と生徒と妹と森見登美彦(!)に手紙を書きまくる

 

〇感想

 実はこのブログで一番最初に読書感想をあげた本は森見さんの『ペンギン・ハイウェイ』であるということもあり、なんとなく勝手に親近感を抱いている。

 

 友達に宛てた章、先輩に宛てた章、という様に送り先ごとに章が分かれており、かつ手紙を送った期間は重なっている。そのため、ここで出てきたこれはあれか、みたいな行きつ戻りつするパズル的な楽しみもあるが、しかしそれをやったところで中身がクサレ大学生の文章というしょーもなさがどうしようもなく森見さん。

 

 憎めないキャラの造形の仕方は相変わらずピカイチ。

「みんなから手紙が届くぐらい慕われていて大変である」みたいなこと言ってるとこでは、「文通始めてるのほぼほぼお前からじゃねーか」と読者全員が突っ込みをいれたことだろう。

この人の作品に出てくるような生活に憧れて京都に旅立っていった人たちを何人も観測しているが、それぐらい影響を与えてしかるべき人物の立たせ方だと思う。

僕は学力が足りんくてクサレ大学生にすらなれんかった。

 

 作中でガンガン森見登美彦ご本人が登場してくるのに最初は笑ってたんだけど、ふとそこから一つ私的に重大な発見をした。

 

 『恋文の技術』に出てくる人物の大半は森見登美彦さんのファンである。彼の作品を読んでない人も出てくるが、しかし読んだら絶対にはまるようなタイプであろうと察する。

 

 つまり「作中の登場人物がその本を読んだら面白いと感じる率100%」ということだ。しかしこれ、実は森見さんに限らず他のいろんな作家さんたちに当てはまる法則なんじゃないだろうか?

 

 小説において「キャラが先か、物語が先か」あるいは「小説と現実の違いは何か」、「作者と作品は別物か」みたいな論争はしばしば行われる。

それをこの法則を踏まえて考えてみると意外とあっさり解決が出来そうな。そうでもないような。

 

 考えが全然まとまっていないのでここでは詳しく書かないし、どこかで詳しく書く予定があるかといわれると別にないけど、感覚的にはちょっと面白い話になりそうな気がする。

 

 以上。

 

『いつか春の日のどっかの町へ』『サブカルで食う』 大槻ケンヂ 角川文庫

 左手でマイクを握り、右手でギブソンJ-50のネックを握った。歌い続けながら、ギターを肩から外すと、いっそギタースタンドに立てかけた。そして身一つだけになってまた歌い続けたのだ。

 この信じられないギター弾き語りシンガーの、歌ってる途中でギターを置く、という驚愕のパフォーマンスに、観客たちは大爆笑し、手拍子を始めた。そして今やマイク一本の真夏のアカペラシンガーと化したFOK46は、夏の太陽の下、観客達の手拍子のみで「踊るダメ人間」を歌いきった。

 歌い終わると嵐のような拍手が僕を包んだ。

 うれしかった。

 グッと来た。

 ギターを始めてよかったとあらためて思った。

 ギターを弾くのを途中でやめちゃったというのに、だ…それなんか、根本的に間違ってないか?

(『いつか春の日のどっかの町へ』 p129)

 

 こことか声出して笑った。

 

 

いつか春の日のどっかの町へ (角川文庫)

いつか春の日のどっかの町へ (角川文庫)

 

 

 

 

 

〇要約

 自分を表現するには音楽という手段しか身近になかった 、という消極的理由でバンドを結成、楽器は何もできないからずっとボーカル一本で通してきた大槻ケンヂが40を過ぎてギターを始めた経緯と経過→『いつか春の日のどっかの町へ』

 バンド、テレビ、小説、様々な分野で活躍してきた大槻ケンヂが「サブカル」になりたいくん/ちゃんに教える、彼の人生の渡り方→『サブカルで食う』

 

〇感想

 筋肉少女帯とか大槻ケンヂと絶望少女たちとか名前は知ってたけど、いまいち自分には合わんと避けて通ってたとこがあった。こんな面白くかっこいい方だったとは。ケンヂさんのことすげえ好きになった。

 

 特に『いつか春の日のどっかの町へ』の「ミルクと毛布」の話は読み終わってすぐ『パナギアの恩恵』のアルバム買ってしまったぐらい良かった。ほかにも良い曲あったら教えてください。自分でも探します。

 

 後サブカル業界の大変さも見えた気がする。まあ当たり前だけど本当に何でもかんでも好きにやれるわけではないわな。

結局は「悔い改めて遊んで生きちゃう」ことだとケンヂさんは語ってるけれども、それでも色々とつらいこともあるはずで、そん中で「遊んじゃう」といえるだけの強さがあるからこそ今の立場があるんだろうと思う。

 

 元々『サブカルで食う』はこちら

「何者にもなれない」あなたに読んでみてほしい、「何者かになってしまった人」の10冊 - いつか電池がきれるまで

 で紹介されてて面白そうだと思って読んだんだけども、↑でも引用されてる「表現するにはプロのお客さんにはなってはいけない」てとこで一つ思い出したことがある。

 

 ニコニコ動画が将棋の新しいタイトル「叡王」を作ったことまでは知ってる人もまあまあいるかと思う。

その叡王の座を獲得するための、「第三期 叡王戦」の決勝7番勝負が今年4月から始まるんだけども、トーナメントを勝ち上がって決勝に進んだのは誰か、皆さん名前言えますか?

 

 破竹の勢いで去年29連勝をなしとげ、現在も13連勝してるという将棋界の彗星藤井聡太6段でもなければ、永世七冠達成し国民栄誉賞を受賞した羽生二冠でもなく、かといって現タイトルホルダーの佐藤天彦名人や渡辺明名人かと思いきやそうでもない。

 

 じゃあ正解は誰かというとこの二人↓

 

 このPVでピアノ弾いてる(上手で笑う)「格調」こと金井恒太六段vs「増田or前田」こと高見泰地六段。この二人が決勝に上がると予想していた人は多分誰もいなかった。

 

 前置き長すぎたが、このPVの4分20秒~、高見泰地六段が自嘲の笑みを浮かべながら「プロの観る将って呼ばれて、」と言うその表情を是非一度見てみてほしい。

 

 観る将っていうのも将棋知らん人は聞いたことない単語だと思う。

サッカーに熱をあげるおばちゃんが実際にサッカーを始めることはないのと同じく、将棋を実際に指さないけど将棋観戦はする人たちのことをそう呼ぶ。

彼らはプロの将棋解説や雑談や昼食などを見ることに面白みを見出す。僕もちょっとしたラジオの代わりになんとなく放送を流したりするので、気持ちはとてもわかる。

 

 いうまでもないが高見泰地六段はプロである。人当りもよく、丁寧な仕事ぶりにファンからの人気が高い。しかしこれまで、タイトルには縁がなかった。

 だからこそ「プロの観る将」などと称されてしまったわけだが、しかしそう揶揄された時の悔しさはいかほどのものであっただろう。

 

 あることを実践しつづけプロになる以上、どんな分野であってもそこには矜持がなければならない。『サブカルで食う』も、一見は「サブルなくん」「サブルなちゃん」への応援にみせかけて、大槻ケンヂさんのある種の覚悟を自然に見せつけられる本なのではなかろうか。

 

 以上(しかし一方で「60になったけどまだデビューした気がしない」とか言っているみうらじゅんという人もいる。それはそれですげ~~)