寝楽起楽

ネタばれには配慮しない、感想/紹介ブログです。毎週1回更新 +α を目指したかった。

instagramにおけるネカマの可能性について

 小説投稿サイト「カクヨム」で、雅島貢さんという方が自らの作品のため、instagramで女子大生なりきりをしている、という話を此処のところされている。

 

 いわゆる女子なりきり、ネカマというものはネットが登場して以来連綿と存在しつづけるものだが、instagramのそれは少し他とは感触が異なるのではないか、という気がしている。

 

 たとえばtwitterネカマをする人たちは、その投稿の中心は写真というよりかは文になるだろう。文章、というのは基本的にふわふわとしたものであるから、実態とどれだけ離れていようがいくらでも偽ることは可能だ。畢竟、twitterにおいては日常と乖離したネカマたちが跳梁跋扈することになる。

 

 一方写真は、当然だが己の生活を撮らなければならない。そのためにネカマをしようとする人達は、必然的に毎日のなかで「おしゃれなもの」「女子っぽいもの」を捜し求めることになる。うえに挙げた雅島貢さんはそれが高じて、「おしゃピク(おしゃれピクニック)」を実践してみたりしている。

 instagramにおけるネカマは「空想で女子を作り上げる」のではなく「自分の日常に女子を発見する」という新しい努力をしているのである。

 

 またtwitterとは異なり、instagramにおけるユーザー主体は(おそらく)女性たちだ。

彼女たちから多くのいいねをもらえばもらうほど、「俺の中に女子大生が居たんだ!」という思いはより強まっていくだろう。

 

 ただ単に「リア充っぽい、きらきらしてるもの」を挙げるだけのツールだと思って侮ってはいけない。instagramはむしろ、「なりきる」ことで生活を見つめなおし、新たな観点を作り上げるのに最適な媒体なのではないだろうか。無論それはネカマをする、というだけではなく、ちょっと違った観点が欲しいなら別に何になっても良い。毎日食べる卵かけご飯で生まれた、卵の殻をひたすらあげつづけるアカウントだって存在してもいいはずだ。

 

cocolog-nifty.hatenablog.com

(↑のリンク先中盤では、ネットにあげてこそはいないが実際に卵の殻を撮り続けている。じっと見つめているとなんとなくお洒落な、最高の趣味っぽく思えてきてしまうから凄い)

 

 この記事のきっかけとなった、雅島貢さんの本気のなりきり日記小説はこちら。

 

 

kakuyomu.jp

 

 また同氏のダイエットの悲喜こもごもを綴った『純粋脂肪批判』

kakuyomu.jp

 

 も、一緒にお勧めしておく。

 

 以上。

 

 

好きな短歌10選

 

『短歌の友人/穂村弘』『短歌をよむ/俵万智』『現代秀歌/永田和宏』『近代秀歌/永田和宏』読んだ。

 

 てわけで今回は、そん中からこれは良い、と思った短歌を10首選んで紹介する。

どれもこれも短歌の入門書的な立ち位置のものなので、おそらく短歌が好きな方々にとっては常識でしょ、てレベルのものしか出てこないと思う。そこはご了承ください。あと、一応同じ人の作品は二首以上は選出しない自分ルールを課しました。

 

ということで早速。

 

○白鳥は 哀しからずや 空の青 海のあをにも 染まずただよふ 若山牧水

 

 これめっちゃ好き。情景的にはむしろ鳥の凛々しさとかそっち方面にもっていく方が想像しやすいが、そこを哀しからずや、としたところまじ天才だと思った。かっこいい。この「や」が疑問なのか反語なのかでまた解釈が分かれそう。あと、「青」と「あを」でちゃんと別物として描かれてるって解説もなるほどだった。

 

たすけて枝毛姉さんたすけて西川毛布のタグたすけて夜中になで回す顔 飯田有子

 

 なんじゃこりゃ、と思ったが、何回か読んでるうちに段々頭を離れなくなってしまった作品。すんげえ追い詰められて手当たり次第に救いを求める様がそのまんま出てる。

57577で上手く分けられない感じも効果としてまた上手。上手さを追求した作品でもないんだろうが。

 

○例えば君 ガサッと落葉すくふやうに 私をさらって行ってはくれぬか 河野裕子

 

 落葉を掬う、という言葉からはなんもかんも持ってて欲しい、というイメージが湧いてくるけど、実際小学校の掃除で落葉拾いやらされてた時、落葉って両手一杯持とうとすると必ずぼろぼろ落ちていった記憶。半端に残されちゃうと、それはそれでつらいんではないかという気がする。全部持っていかれたら楽でいいよなあ。

 

この春の あらすじだけが 美しい 海草サラダを 灯の下に置く 吉川宏志

 

 上の句大賞。反面下の句はやや狙いすぎな気もする。「あらすじだけが」ってことは、内容を見ていくとめっちゃドロドロしてるんでしょうな。灯の下に置いた海草サラダはあらすじなんすかね、内容なんすかね。

 

やは肌の あつき血汐に ふれも見で さびしからずや 道を説く君 与謝野晶子

 

 説明不要だと思います。日本史の教科書で見た。これも上の句がかっこいいよなー。

 

君かへす 朝の舗石 さくさくと 雪よ林檎の 香のごとくふれ 北原白秋

 

 下の句大賞。林檎の香のごとくふれってなんだよと言いたいが、この詩的な表現が全体を一気に引き立ててると思う。ふる、ではなくふれ、と読み手の願いがこめられているあたりもとても良さがある。帰っていく人が林檎が好きだったのかな。

 

○海を知らぬ少女の前に麦藁帽の われは両手をひろげていたり 寺山修司

 

 映画かよ。うんと両手を伸ばす麦藁帽子の少年が目に浮かんでくる。われ、は海を知っているということは、帰省した先での出来事だったりするのだろうか。にじみ出る少年の夏の日の思い出感。少女は海を知ることはできたのだろうか。

 

ねじをゆるめるすれすれにゆるめるとねじはほとんどねじでなくなる 小林久美子

 

 別ベクトルで説明不要、というか説明不可能。まじでうん、そうだね、としかいえないんだけど、なんか好き。全部ひらがなっていうところが強いていえば鑑賞のポイントか。漢字だと意味が出ちゃうし。最初っからひらがなで始まるということは、最初からゆるまった状態なんだな、ということは分かるけど、でもだからなんなんだろう。

 

○遺棄死体 数百といひ 数千といふ いのちをふたつ もちしものなし 土岐善麿

 

 これも同じく当たり前のことでしかないが、文脈によって重みを段違いに跳ね上げている好例。「いのちはひとつしかない」よりも、「いのちをふたつもってるひとはいない」と言われるほうが、なんとなく納得感が増す気がするのは何故だ。

 

○手でぴゃっぴゃっ

たましいに水かけてやって 

「すずしい」と声ださせてやりたい              今橋愛

 

 可愛い歌。水をかける魂は自分のものなのか他人のものなのか。俺のたましいも涼しくしてくれ。

今回の記事、初見時(2ヶ月ぐらい前?)に気に入った短歌に付箋貼っとく→そこからさらに選ぶ、という形式を取ってるんだが、最近暑いから十選に入った感は否めない。

 

 以上十首。ほんとは10といわず気に入ったもの全部紹介したいが、付箋張ったものだけでも多分100は優に越えてしまうのでちょっと労力がない。まあ折に触れてほかの記事で見せていきたい。読んだ本のリンクは最後に貼っておくので気になったものがあったら探してみればよいと思う。

 

 短歌の鑑賞は、作者の前景・詠んだ時の場面等々を考慮に入れる派/入れない派、短歌集での並びも重視する/しないなど、色んな見方があるらしく中々奥が深そう。そのへんが厳格に決まっているわけではない(というか、最近寛容になったのかな?)というファジーさが結構はまる。

 

 ほんとは元々の短歌集を当たるべきなんだろうが、どうも苦手っぽい。我家に河野裕子さんの『蝉声』があったので手を出してみたはいいものの、同じことをちょっとずつ違ったところから繰り返されてる感じで耐えられなかった。

1首三十一文字の中に凝縮された完成度、というところが見たいのであって、そこを広げられていっちゃうとじゃあ普通の文章でいいじゃん、て思っちゃう。まあ実際あの1首1首の中にそれぞれ濃厚なものを感じ取る人もいるのだろうとは思うんだけども。

そこまでは自分のレベルがまだ足りないらしかった。

 

 

 今回は以上。一応読んだ本の内容もざっというと、『短歌をよむ』が多分一番ゆるい初心者向け、『短歌の友人』は穂村弘の独自な短歌観を説明される感じ、『近代秀歌/現代秀歌』はそれぞれ100首ずつ有名どころを網羅していくものだった。以下はリンクです。

 

短歌をよむ (岩波新書)

短歌をよむ (岩波新書)

 

 

 

短歌の友人 (河出文庫)

短歌の友人 (河出文庫)

 

 

 

近代秀歌 (岩波新書)

近代秀歌 (岩波新書)

 

 

 

現代秀歌 (岩波新書)

現代秀歌 (岩波新書)

 

26歳女子の一歩:『勝手にふるえてろ』 綿矢りさ著 2012年 文春文庫

 とどきますか、とどきません。光かがやく手に入らないものばかり見つめているせいで、すでに手に入れたものたちは足元に転がるたくさんの屍になってライトさえ当たらず、私に踏まれてかかとの形にへこんでいるのです。とどきそうにない遠くのお星さまに受かって手を伸ばす、このよくばりな人間の性が人類を進化させてきたのなら、やはり人である以上、生きている間は常に欲しがるべきなのかもしれない。 みんなの欲しがる気持ちが競争を生み、切磋琢磨でより質の高いものが生み出されていくのですね。でも疲れたな。まず首が疲れた。だってずっと上向いてるし。

(本著p7-8)

 

 ちょっと詩人ぽい出だしからがんがん恋愛方面にいくのがリアルっちゃリアル。

 

 

勝手にふるえてろ (文春文庫)

勝手にふるえてろ (文春文庫)

 

 

○あらすじ

 ずっと片思いしてる理想の「イチ」と全くタイプじゃないけどがんがん推してくる現実の「ニ」の間で揺れ動く 「勝手にふるえてろ

 だるいしんどいつかれた 「仲良くしようか」

 以上2編所収。

 

○考察・感想

 新着ブログ記事を漁るのに一時期はまっていた、というか今でもやってるんだけど、たまにぎょっとするほど赤裸々だったりポエミーだったりするものがあって中々面白い。

 

 この小説もジャンル分けするとすれば多分その辺り。悪く言ってしまえばチラシの裏にでも書いてろよ、というような他者から見ればほんとにどうでもいいことだけど、本人の中では 滅茶苦茶切実で、それも自分で分かってるから本来は独白して終わりのところを小説にしちゃいました、みたいな。簡単なようでいて誰にでも書けるようなもんではない。

 

 勿論、完全に個人にしか理解できないような形で書いてしまうとそれは小説ではないので、どこまでいじるかの按配が中々難しそうだと感じる。今作はその面で言うとわりとマイルドに一般向けにしてる風。ただ、「勝手にふるえてろ」的な子も「仲良くしようか」的な子も世の中には確実に存在しているんだろうなと思うし、大衆に当てたというよりかはあくまでもその人達宛ての作品として作ったのではなかろうか。

 いかんせん自分は26歳でも女子でもないので、客観のまんまおわっちった。

 

 綿矢りささんはタイトル付けが上手。読んでなくてもなんとなくあの人の作品か、っつって頭に残るパワーがある。

 

 作品としては『インストール』とか『蹴りたい背中』とかのほうが好きだったかな。

 

以上。

静かに脈を打つ:『校舎の静脈』 日和聡子 2015年 新潮社

  「おふくろ?」

 驚いた息子をなだめるようにして、母親はやさしく包み込むような声を掛けた。

――よう帰ってきましたね。

 声を発するものは、目の前に坐る猫であった。その声の懐かしさに、彼は取り返しのつかないことをしてしまったと気づいて、猛烈に悔いた。悔いても悔いても、もはやそれをどうすることもできなかった。科あれは寒さも忘れて、喉の奥からぐっとこみ上げてくる泪をこらえた。

「帰りました――。」

 額ずいて挨拶をし、無沙汰を詫びる息子を、母はあたたかいまなざしで見つめていた。

――お前を待っている間に、猫になってしもうたが。

 母は言った。責める調子でないのが、かえって彼の胸を抉った。

(「年男」 p86)

 

 何の因果も説明もなく、出だしからいきなり母が猫。

 

校舎の静脈

校舎の静脈

 

○あらすじ

兎にえさをやりたかった 「兎」

人魚と河童と龍の世間 「湖畔情景」

里帰り 「年男」

給食を運ぶエレベーターには男の子が乗っている 「校舎の静脈」

 

○考察・感想

御命天纏佐左目谷行』と比べると、ややテーマから遠回りさせられている感。テーマがなにかはわかんないけど。

 

「兎」は暗い、「湖畔情景」はユーモアあり、「年男」は静かで、この3つは『御名』にもあったような話。「校舎の静脈」のみちょっと毛色が違って、これが一番面白かった。

登場人物全員がちゃんと名前のある人間の世界で、それぞれの生活の一瞬一瞬に潜む、何かの静脈。多分これが、一番日和さんの日常実感に近いんでないかと思う。

中学校、という設定も相まって、なんかずーーっと何かの予感だけがあるような雰囲気。他の作品は軒並み、それが起こってしまったり、起こってしまった後を描いてたりする中で、危ういバランスを唯一保ってる。

 

○印象に残ったシーン

 

 南畑光子は、寒い廊下の端にいた玖川観喜子と湖原治世のもとへ駆け寄ると、いきなり二人を両腕で抱き寄せ、「ひらたけ!」といった。

 抱き寄せられたまま玖川観喜子が、「何それ。」と怪訝な顔で、南畑光子を見た。

 「寒いとき、これするといいんだよ。」

 南畑光子が言った。

 「え?だけえ、何が『ひらたけ!』なん。」

 重ねて訊かれて、南畑光子は二人から一旦腕をはなし、大きく首をひねった。

 「わからんかなあ。こうして、うじゃっとたくさん寄り集まって育ってる格好だあな、平茸が。こがあなふうにいっぱいひっつき合って、にょおきにょき、べらべらっと、びっしり木から生えとるところでしょうが。」

 それをきいて、湖原治世が疑問を呈した。

 「それなら、しめじ!じゃだめなん?」

 「ひらたけ!だよ、断然。」

 南畑光子はそう答えてから、ためしにもう一度、「ひらたけ!」を言った。

(「校舎の静脈」 p171-172)

 

 ずうっとそわそわするような話が続いてからのこれが来るから印象に残るのであって、多分ここだけ抜き出しても「は?」って言われるだけだとは思うんだけども、でも僕はここが一番好きなんです。なんかすげえほっとしたんですよねえー。

 

 以上。凄く久しぶりに記事書いたなーという気がしたけど最終更新から1週間ちょっとしか経ってなくて感覚の狂いを感じる。