寝楽起楽

ネタばれには配慮しない、感想/紹介ブログです。毎週1回更新 +α を目指したかった。

これが直木賞作家だ!『この話、続けてもいいですか。』 西 加奈子 ちくま文庫 2011年

 私の父の、酔ったときの口癖は「そういう世界」です。そのときのポーズも決まってます。親指を突き立てない「グー」サイン。ハタから見れば握りこぶしに力を入れているだけのような状態で、元気に「そういう世界!」 。どういう世界?私の統計によると、言葉に煮詰まったとき、自分が何を話していたかわからなくなったとき、人の話を聞いていなかったときなどに使います。例えば、「(父・泥酔)いやぁ、僕が言いたいのはね、僕は、トルコが好きっ」「(私たち・素面)トルコが好き?なんで?」「(父・泥酔)……そういう世界っ」

(p56)

 

 使いてえ~~。

 

 

この話、続けてもいいですか。 (ちくま文庫)

この話、続けてもいいですか。 (ちくま文庫)

 

 

 

〇内容

 「サラバ!」で直木賞受賞、その文庫化で再び話題になっている西加奈子さんの、若さ溢れるエッセイ集。

 

〇感想

 個性豊かな人物が続々登場。

 

 部長のY君。中学のときは「古墳クラブ」に所属、校庭の隅で思い思いの古墳を作り、先生に「これだと、石室はどこに置くのかな?」などと指摘され、最初からやり直すという、大変有意義で、人生の役にしかたたない経験をしています。

(p61)

 

 こんなん笑うしかないじゃん。石室にこだわって作り直しとか、ちゃんと真面目に部活動してるとこがほんと良い。

 

 そういう人物をちゃんと拾い上げて笑いに変えることが出来る、西さん自身は恐らくはとても素直な人である。

 

 だからこそ西さんの気持ち、「楽しませたろう笑かしたろう」というサービス精神は衒いなく文章からそのまま伝わってくるし、また同時に「こんなんだけど自分、ほんとにこれでいいん だろか?」的な思考も同時に駄々洩れで、人間性の複雑さ的なものも一緒に味わえてしまうという、大変お得なエッセイ集。

 

 「サラバ!」まだ読んでないんだけど、この人の書いた作品なら読んでみたいと思わせてくれるような一冊でした。

 

 以上。

言葉の円盤投げ:『熊の敷石』 堀江俊幸 講談社文庫 2001年

 木の鎧戸にくりぬかれた菱形の穴から、形どおりの幅でやわらかい光の筋が素焼きタイルの床に落ちていた。部屋の空気じたいはきれいに澄んでいてむしろ涼しいくらいだったが、壊れてのばすことのできなくなったソファーベッドの背もたれに顔が密着するような窮屈な恰好で寝ていたせいなのか、それとも奇妙に現実感のある夢のせいなのか身体中が火照り、喉が渇き、そして夢と同じように右の奥歯がうずいた。テーブルのうえの置時計は、もう九時半を回っている。ヤンが出ていったことに、私はまったく気づかなかった。ゆっくり起きだして洗面所に行き、壁に作りつけられた両開きの棚からいつのものだかわからないアスピリンを探し出して水道水を注いだコップに投げ入れると、細かい空気の泡が音を立てて勢いよくわきあがり、その大半がぶつぶつと宙に消えたのを見届けてから舌にかすかな刺激のある即席の水薬を飲み干した。

(本著p11-12)

 

 解説の人(今回は川上弘美さん)と注目した文が一致すると嬉しい現象。

 

 

熊の敷石 (講談社文庫)

熊の敷石 (講談社文庫)

 

 

〇あらすじ

・フランスに「停泊」中の旧友ヤンとの久方ぶりの交流:「熊の敷石」

・死んじゃった友人の大きくなった妹とその子供と砂の城を作る:「砂売りが通る」

・「城侵入しようぜ」「おk」:「城址にて」

以上3編。

 

〇感想・考察

 些細なことを特別凄いように見せて書く作家は多くいるけれども、些細なことをそのなんでもなさのまんま料理してくる人は中々居ないと思うけれども、堀江さんはその一人という感じ。

 

 一回目はぽけーっと読んでたら急に話が終わって、え?あ?へ?は?となった。読み手にも技量を要求してくるのはいかにも芥川賞感ある(※個人のイメージです)。明治大学の教授でもあるとのことだが、堀江さんの仕掛けてきた試験に私は不合格だったな、これ。

 

 つー訳でちょっと頑張って考えてみると、「熊の敷石」のメインテーマは言葉のキャッチボール、ではなく言葉の円盤投げなのであろう。

 

 円盤投げにも競うという要素はあれども、基本的にはどこまで飛距離を伸ばせるかというのは個々人の問題である。投げる、ということのみに固執している「私」は、つまりヤンのことは見ているようで見ていない。

例えばヤンはユダヤの話にこだわっているが、「私」はそれに対しいまいちピンときておらず、そしてそれはそのまま私たち読者にも共有されてしまう。

 

 作中のラ・フォンテーヌの熊の敷石の寓話は、熊が老人にまとわりつく蠅に対し敷石をぶん投げたことで老人を殺してしまう話だ。転じて、余計なおせっかいのことをフランスではそういうらしい。

 

 「私」とヤンにそのまま当てはめると、熊=私、ヤン=老人となりそうなものだが、しかし、実際にはヤンが旅立った後、その友人が出してきたケーキによって激痛を覚えるのは「私」のほうである。

ヤンは間違いなく「私」とちゃんとコミュニケーションは取れていないという思いを抱えていたのだろう。しかし、ドッジボール程度には彼の言葉は届いていることがここから察することが出来る。

 

 つまり結局のところ、どこまでいっても「熊の敷石」は私の一人相撲の話であり、それを余計なおせっかい気味にヤンが教えてあげた、というところで終わっている。そういう意味ではむしろ物語が始まる(主人公が変わっていく)のはここからであり、「熊の敷石」が物足りないと思う人が一定数居るのはそのあたりが原因かと思われる。

 

 そういう意味でいうと、「砂売りが通る」「城址にて」のほうが面白い、という感想はとても理解できるところだった。よくわかんないけどわかる、ぐらいには適当読みでもいけるので。

 

以上。

 

本を焼き、心を焼き:『華氏451度』 レイ・ブラッドベリ 伊藤典男訳 早川書房

 火を燃やすのは楽しかった。

 ものが火に食われ、黒ずんで、別の何かに変わってゆくのを見るのは格別の快感だった。真鍮の筒先を両のこぶしににぎりしめ、大いなる蛇が有毒のケロシンを世界に吐きかけているのを眺めていると、血流は頭の中で鳴り渡り、両手はたぐいまれな指揮者の両手となって、ありとあらゆる炎上と燃焼の交響曲をうたいあげ、歴史の燃えカスや焼け残りを引き倒す。シンボリックな451の数字が記されたヘルメットを鈍感な頭にかぶり、つぎの出来事を考えて、目をオレンジの炎でかがやかせながら昇火器に触れると、 家はたちまち猛火につつまれ、夜空を赤と黄と黒に染め上げてゆく。彼は火の粉を蹴立てて歩いた。夢にまで見るのは、古いジョークにあるように、串に刺したマシュマロを火にかざしてぱくつきながら、家のポーチや芝生で、本が鳩のようにはばたきながら死んでゆくのをながめること。本がきらめく渦を描きながら、煤けた黒い風に乗って散ってゆくのを眺めることだった。

(本著p11-12)

 

 かっこいい……。

 

 

 

 

〇あらすじ

 本が禁じられた世界で本を燃やす仕事、昇火士に従事していたモンターグが、ある日妄想好きな女の子に出会ったことから段々と世界に疑問を覚えるようになり、やがて色々するようになる

 

〇感想・考察

 

華氏451度――この温度で書物の紙は引火し、そして燃える。

 

↑この裏表紙のあらすじの出だしすらもかっこいい。

カッコイイ―って言ってたらいつの間にか読み終わってた。そんな感じ。

 

 SFというと『サイエンス』・フィクションだから、なんかマニアで硬いイメージがつきがちだけれども、手を出してみると全然普通に楽しめる。

 中二心をくすぐってくるフレーズが一杯あるので、ラノベから一歩進んだ本が読みたい!とかそんな人にもおすすめ。

 

 凄く素朴に、レイ・ブラッドベリさんは本の可能性を信じていた人なんだろうと思う。そもそも危険とみなされなきゃ本を燃やすって発想にも至らないわけだし。

 

 しかし自分がこの世界に居たらやっぱり本は多分こっそり持ってただろうな。本と心中してる人が作中には出てくるけど、実際「読めなくなるか、死か」みたいな状況になったら割と悩むよねえ。世間の本好きと比べると全然読書してないんだけど。

だから老眼になったらどうしようっていうのが今一番の悩み。

 

 「よく、考えるんだよ。祖父が亡くなってしまったせいで、いったいどれくらいのすばらしい彫刻がこの世に出ることなく終わってしまったのだろう、どれくらいの冗談がこの世から失われてしまったのだろう、祖父の手のぬくもりをしらない伝書鳩はどれくらいいるのだろう、とね。祖父は世界をかたちづくっていた。たしかに世界に働きかけていた。世界は祖父が亡くなった晩に、一千万もの素晴らしいおこないを失ってしまったんだよ」

(…)

「人は死ぬとき、なにかを残していかなければならない、と祖父は言っていた。(…)お前が手を触れたものとはちがうものに、お前が手を離した後もお前らしさが残っているものに変えることが出来れば、なにをしてもいいと」

(本著p260-261)

 

 本を燃やすというモチーフからは、前紹介したこの本↓を思い出す。

 

marutetto.hatenablog.com

 

 この小説の中の本を焼いたのも、やっぱり華氏451度の炎だったんだろうなあ。

 

 『華氏451度』も『密やかな結晶』も、「伝わってきたものをちゃんと伝える」ことが大きな命題としてあるけれども、その描き方はだいぶ違くて、でも同じ物語として読むことも出来て。

 

 後の経験が前に読んだ本の考察を深めたりする、こういうことがあるからやめられねえんだよな。でもブログ書いてなかったら多分忘れてた。ブログ万歳。

 

以上。

孤独に浸る人々:『千年の祈り』 イーユン・リー 篠森ゆりこ訳 新潮社 2007年

 このご先祖様の物語は、わが町の歴史上もっとも輝ける一頁だ。まるで夜空に華麗にひらめく一発の花火のようだ。だがあとには闇がのしかかる。まもなく最後の王朝が共和政体に倒され、皇帝が紫禁城から追放された。皇帝の誰より忠実な側近である最後の世代のご先祖様も、一九三〇年代には、彼らのほとんどは紫禁城周辺の寺院で貧しい暮らしをしていた。(…)それから短い共和制の時代があり、軍閥の時代があり、二回の大戦があった。どちらの大戦でも勝者側に居たものの、勝ち取ったものは何もなく、やがて内戦。ついに共産主義の勝利を迎えるのである。さて我が国における共産主義の勝利を独裁者が宣言した日のこと、わたしたちの町に住むある若い大工が、新妻のいる家に帰ってくる。

(本著p57-58)

 

 時代背景からして日本の小説とは当たり前に全然違う。

 

 

千年の祈り (新潮クレスト・ブックス)

千年の祈り (新潮クレスト・ブックス)

 

 

〇あらすじ

 共産主義国家の中で様々なものに繋ぎ止められ身動きができない人たちの話。

 

 〇感想・考察

 生まれる時代を、生まれる場所を間違えたと思いながら、それを声高に主張することは許されない苦しみをつづった、とも読めるし、一方で普遍の主題である人間の寂しさ、悲しさを描いているともいえる。

 

 読んでいて心楽しくもならず、また引きこんでくるような熱を持っているような文体でもないのに、つい自然と耳を傾けざるを得ない。

何となく物静かなおばあちゃんを連想するけれども、筆者はまだ40代らしい。

 

 「ちゅうごくで『修百世可同舟』といいます」誰かと同じ船で川をわたるためには、三百年祈らなくてはならない。それを英語で説明しようとして、ふと思う。言語の違いなどどうでもいい。訳そうが訳すまいが、マダムならわかってくれるだろう。<たがいが会って話すには――長い年月の深い祈りが必ずあったんです。ここにわたしたちがたどり着くためです」彼は中国語で話す。

 その通りだと、マダムはほほえむ。(本著p233)

 

  この辺の感覚とかはさすが歴史ある国。三百年祈る、とか全く想像もつかない感覚。

 

 しかしこれは同時に、人との縁を捨て去ることが出来ないという呪縛にもなりえ、本著ではそれに対し違和感を持ち、逃げ出していく若者たちも登場する。

 そしてそれはどっちが良い、悪いという次元ではなく、両方ともただ静かに語られていく。

 

 中国文学といえばいいのかなんなのか分類わけに困るけれども、良い本であることだけは確かである。

 

以上。