私は毎日さまざまなことをしている。たえず何ごとかをなしている。
だが、私が何ごとかをなすとはいったいどういうことだろうか?どんな場合に、「私が何ごとかをなす」と言えるのだろうか?
たとえば、私が「何ごとかをさせられている」のではなく、「何ごとかをなしている」と言いうるのはどういう場合か?そこにはいかなる条件が必要となるのか?言い換えれば、私が何ごとかをなすことの成立要件とは何か?どうすれば私は何ごとかをなすことが出来るのか?
いや、問いはもっと遡りうる。そもそも、私は何ごとかをなすことができるのか?
(本著p14)
この導入いかにも哲学書っぽくてかっこよい。
中動態の世界 意志と責任の考古学 (シリーズ ケアをひらく)
- 作者: 國分功一郎
- 出版社/メーカー: 医学書院
- 発売日: 2017/03/27
- メディア: 単行本
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○内容要約
能動態/受動態=行為をする/されるの二分法しかないという思いこみが、意思の概念、主体/客体といった観点の強制・抑圧がなされた哲学を導いているが、古来より存在する中動態を導入し、主語が文中の動詞が指す行為の過程中の「外側と内側(能動態と中動態」のどちらの方により傾いているか、という視点から哲学を読み解いてみよーぜ
○感想・考察
医学書院から出てるというのがとても良い。
「近代的主体」が創造されてしまったがために生まれる問題(依存症の人たちに、それって意思が弱いからでしょ、っていっちゃうとか)に対する反駁を書かなければならない、という「義の心」で執筆したらしい。偉い。実際本著において主体とか意思とかを特権的地位から引き摺り下ろすことには間違いなく成功してると思う。
意思が行為の第一の原因じゃない(惚れる、て言った時、惚れよう!という意思が第一にあってそっから惚れる人は居ない)ていう話から、段々中動態の話に転じてく。
色んな人(本著で言及されるのはパンヴェニスト、ハンナアレント、デリダ、ハイデガー、ドゥルーズ、細江逸記、アガンペン、スピノザ、メルヴィル)がこれまで書いてきた「能動態/受動態の外部にあるもの」の論理を見始めるあたりから、同じ回廊をぐるぐる回ってるような感じになってきてややこしさがあった。
まあでもこれは筆者のせいではなくて、それぞれが散発的に(つまり、蓄積されることがなく)論じてきたのを初めて集積しようとした試み、として本著は多分位置づけられるもんなので、分かりにくくなっちゃうのもしゃーない。
多分國分さんの目指してるのはこんな低い理解ではないだろうけれども、中動態っつうなんかすげーもんがあるらしい、という認識はとりあえず出来て、それだけでも読んだ価値は充分あった。
これから読むという人たちは、各論に入る4章あたりからは、「中動態の考察が深まっていくんだろう」で読むのではなく、「それぞれがどんな風に能動態/受動態の外部に出ようとしたのか」で読み解いてった方が分かりいいと思うんで、それをお勧めします。僕も二読目出来ればそーする。
以上。