寝楽起楽

ネタばれには配慮しない、感想/紹介ブログです。毎週1回更新 +α を目指したかった。

愛の爆弾:『こちらあみ子』 今村夏子著 2014年 ちくま文庫

 スコップと丸めたビニル袋を手に持って、あみ子は勝手口の戸を開けた。ここ何日かは深夜に雨が降ることが多かった。雨が降った翌日は、足の裏を地面から引きはがすようにしてあるかなければならないほどぬかるみがひどかった表の庭に通じる道も、昨日丸一日の快晴のおかげで今朝は突っかけたサンダルがなんの抵抗も受けずに前へと進む。サンダルの縁にへばりついた泥が灰色に固まっているのが目にとまり、すみれを採ったらついでに外の水道でこのサンダルを洗うことにした。

(本著p9)

 

 この出だしからあんな風になるとは。

 

 

こちらあみ子 (ちくま文庫)

こちらあみ子 (ちくま文庫)

 

 

 

○あらすじ 

 なにがなんでもなにが起きてもめっちゃ好き 「こちらあみ子」

 七瀬さんの、芸能人の、恋人「ピクニック」

 おばあちゃんがたった 「チズさん」

以上3編所収。

 

○考察・感想

 体調悪いときに読んだら多分そのまま吐くと思う。

そんぐらい力のある衝撃的な作品だった。今年読んだ本ベスト3に内定すると予言。

 

 別にいわゆるグロ・ホラーとかそのへんを狙ってるわけじゃなく、ただあみ子が生きてるだけなんだけどホントに途中から息が詰まって詰まってしんどかった。なのに読まされてしまうあたり筆力が高すぎる。

 

 こっからちょこちょこねたばれするけど、ほんとにまじでおすすめなんで未読の人は出来れば本屋に直行しておくれ。

 

 「泣いとったじゃろう」

 「うん。でもあれってほんまにいきなりなんよ。あみ子なんにもしてないよ」

 「あみ子」

 「なに」

 「あみ子」

 「なんなん」

 すでに日が暮れていた。兄は腹が痛むのをこらえているような顔をして、口を開きかけてはまた閉じて、結局それ以上はなにも言わずに背を向けた。

(本著p58-59)

 

 この場面で兄に共感しない読者は果たして居るのだろうか。こっちこそ「なんなん」と言いたいのに、あみ子はまるでこちらに理解を示さない。ここの事件を皮切りにして雰囲気はがらりと変わるが、あみ子自身は前半とまるで同じで、それがまた怖いというかなんというか。でも彼女からするとただ普通にしてるだけなんだよなぁ。

 

 解説の穂村弘さんが書いてるように(彼と町田康が解説してるという時点で普通の小説ではないよね)、「ありえないありえない」いうてるうちにいつの間にか、その絶対的な断絶さにこちらは憧れさえ抱くようになってしまう。正しい、とか正しくない、とかを飛び越えていかれる、その恐怖。多分どこからあみ子に感情移入しはじめるかであみ子レベルを診断できると思う。 自分、今でこそそれなりに育ったものの昔はマジで宇宙人だったと常々親から言われて過ごしてるんだが、これ読んでたらそいつが身じろぎするのを感じた。

 

 個人的にお気に入りはカメラをぶん投げるシーン。ずぅっとにこにこしてるようなこの子にもちゃんとそういう感情あるんだな、そりゃそうだな、と思って。あとあみ子の隣の席の子も好き。

 

 「ピクニック」は割合淡々と読んじゃったんだけど、「ルミ」ではなく常に「ルミたち」という群体が、「七瀬さん」を観察している、という書評を読んで後からうげぇーってなった。異物をあざ笑い、排除し、取り込もうとする集団意識の話ってことなんですかね。

 

 「チズさん」は一番謎。この話は果たしてなんなんだ。わからん。

 

以上。

 

一日魔法使い:『メアリと魔女の花』 メアリー・スチュアート著 越前敏弥・中田有紀訳 2017年 角川文庫

 まったく、いやになるくらい、ありふれた名前だ。メアリ・スミスだなんて。ほんとにがっかり、とメアリは思った。なんの取り得もなくて、十歳で、ひとりぼっちで、どんより曇った秋の日に寝室の窓から外を眺めたりして、そのうえ名前はメアリ・スミスだなんて。

 家族中で、なんの取り得もないのは、メアリだけだ。お姉さんのジェニーの髪はながくてきれいで、本物の金みたいな色だし、お兄さんのじぇれミーはハンサムだって、みんながいう。どちらも頭がよくて、どう見てもずっとかわいい。

(本著p7)

 

  映画もみたのでその話もおりまぜます。

 

 

 

 

○あらすじ

 猫に誘われ不思議な花を潰したら魔法が使えるようになり、空を飛んだら魔法の大学を発見してわーい

 

○考察・感想

 上質なおとぎ話。心地よくすっと読めて楽しかった。

最後メアリが完全に冒険の内容忘れちゃうあたりのがやや淋しい。『不思議の国のアリス』は夢オチだけど、アリスはちゃんと夢のことを覚えてるし、お姉さんもそれ聞いて不思議の国を幻視してる。彼女らとメアリの違いはなんだろ?

 

 背の高い雑草が、足もとでさらさらと音を立てたのは、白兎が大急ぎで通っていったのでした――おびえたネズミが、近くの水たまりの中を、水をはねとばして進んで行きましたーー三月兎とその友達が、終わることのない食事をともにしているときの、茶碗のかちゃかちゃ鳴る音が聞こえました。女王が、不運な客を死刑にしろと命ずる甲高い声が聞こえました。

(中略)

 最後に、お姉さんは、このおなじ小さな妹が、やがていつの日にか、一人前の女になったころを想像してみました。アリスは、だんだん成熟していくでしょうが、それでも少女時代の素朴で優しい心を失わず、ほかの小さな子供たちを回りに集めては、いろいろな不思議な話をしてーーおそらくははるか昔の不思議の国の夢の話もしてやって、子ども達の目を輝かせるだろう。

(『不思議の国のアリス』より

 

  でも、冬になって、すべての木が葉を落とすと、カバノキは風の吹きすさぶ高い空を背にして、干しブドウを思わせる濃いむらさき色の枝ばかりになり、風邪がそのあいだを吹き抜けて、何かが飛んでいるような音が聞こえてくる。たくさんの小枝が、走るシカのひづめのようにな鳴り、その上の冬空では、鳥たちがするどい声をあげながら宙返りする。

 けれど、学校の寮に入ったメアリは冬にその林へいくことはめったになく、その音を聞くこともない。

 それに、たとえ聞いたとしても、なんの音だか、もうおぼえてないだろう。

(本著p186-187)

 

 

 

 以前読んだ『オズの魔法使い』の訳者あとがきで柴田元幸さんが、赤毛のアンとの対比で読むとまた面白い、という話を書いていた。

marutetto.hatenablog.com

 

 それを踏まえ、今作もその視点で読んで見ると、アンはあふれ出る妄想力によって日常をファンタジーに変えるが、メアリはファンタジーが向こうからやってくる、という違いがあるかなと。

 また『オズ』のドロシーは結構ニヒルというか、ほっといてもずんずん進んでくようなところがある。対してメアリは率先してお手伝いしようとしたり(失敗するけど)、なんか全体的に素直なイメージ。3人並んでたら見てておもろいのはドロシー、おもろいけどうるさいのはアン、癒しがメアリかな。

 

 映画の話。友情・努力・勝利、みたいな片鱗はあるものの、原作の主題があくまでおとぎなので、どうなるかと思ったがやっぱりそこは大分いじってきてたように思う。

むしろその部分も変えずにただジブリの世界観のまんまやってくれたほうが爽快な作品にしあがったんではないかという気がするけど、ジブリは改変が十八番だから仕方ないっちゃ仕方ない。

 

 多分意図的に、魔法サイドが過剰に悪趣味な形で描かれてるのが一番なんだかなあと思った。自分が凄く承認される場所、という部分だけで懐柔されるんじゃなく、魔法そのものに魅了される描写があったほうが好き。まあ完全に個人の趣味だし、原作にもそんな箇所一ミリもないが。でも最終的に「魔法なんていらない!」て結論に向かうのであれば、そういうシーンはある程度必要なんではなかろうか。総じて、次回作に期待、という出来。

 

 今回は以上です。

  

instagramにおけるネカマの可能性について

 小説投稿サイト「カクヨム」で、雅島貢さんという方が自らの作品のため、instagramで女子大生なりきりをしている、という話を此処のところされている。

 

 いわゆる女子なりきり、ネカマというものはネットが登場して以来連綿と存在しつづけるものだが、instagramのそれは少し他とは感触が異なるのではないか、という気がしている。

 

 たとえばtwitterネカマをする人たちは、その投稿の中心は写真というよりかは文になるだろう。文章、というのは基本的にふわふわとしたものであるから、実態とどれだけ離れていようがいくらでも偽ることは可能だ。畢竟、twitterにおいては日常と乖離したネカマたちが跳梁跋扈することになる。

 

 一方写真は、当然だが己の生活を撮らなければならない。そのためにネカマをしようとする人達は、必然的に毎日のなかで「おしゃれなもの」「女子っぽいもの」を捜し求めることになる。うえに挙げた雅島貢さんはそれが高じて、「おしゃピク(おしゃれピクニック)」を実践してみたりしている。

 instagramにおけるネカマは「空想で女子を作り上げる」のではなく「自分の日常に女子を発見する」という新しい努力をしているのである。

 

 またtwitterとは異なり、instagramにおけるユーザー主体は(おそらく)女性たちだ。

彼女たちから多くのいいねをもらえばもらうほど、「俺の中に女子大生が居たんだ!」という思いはより強まっていくだろう。

 

 ただ単に「リア充っぽい、きらきらしてるもの」を挙げるだけのツールだと思って侮ってはいけない。instagramはむしろ、「なりきる」ことで生活を見つめなおし、新たな観点を作り上げるのに最適な媒体なのではないだろうか。無論それはネカマをする、というだけではなく、ちょっと違った観点が欲しいなら別に何になっても良い。毎日食べる卵かけご飯で生まれた、卵の殻をひたすらあげつづけるアカウントだって存在してもいいはずだ。

 

cocolog-nifty.hatenablog.com

(↑のリンク先中盤では、ネットにあげてこそはいないが実際に卵の殻を撮り続けている。じっと見つめているとなんとなくお洒落な、最高の趣味っぽく思えてきてしまうから凄い)

 

 この記事のきっかけとなった、雅島貢さんの本気のなりきり日記小説はこちら。

 

 

kakuyomu.jp

 

 また同氏のダイエットの悲喜こもごもを綴った『純粋脂肪批判』

kakuyomu.jp

 

 も、一緒にお勧めしておく。

 

 以上。

 

 

好きな短歌10選

 

『短歌の友人/穂村弘』『短歌をよむ/俵万智』『現代秀歌/永田和宏』『近代秀歌/永田和宏』読んだ。

 

 てわけで今回は、そん中からこれは良い、と思った短歌を10首選んで紹介する。

どれもこれも短歌の入門書的な立ち位置のものなので、おそらく短歌が好きな方々にとっては常識でしょ、てレベルのものしか出てこないと思う。そこはご了承ください。あと、一応同じ人の作品は二首以上は選出しない自分ルールを課しました。

 

ということで早速。

 

○白鳥は 哀しからずや 空の青 海のあをにも 染まずただよふ 若山牧水

 

 これめっちゃ好き。情景的にはむしろ鳥の凛々しさとかそっち方面にもっていく方が想像しやすいが、そこを哀しからずや、としたところまじ天才だと思った。かっこいい。この「や」が疑問なのか反語なのかでまた解釈が分かれそう。あと、「青」と「あを」でちゃんと別物として描かれてるって解説もなるほどだった。

 

たすけて枝毛姉さんたすけて西川毛布のタグたすけて夜中になで回す顔 飯田有子

 

 なんじゃこりゃ、と思ったが、何回か読んでるうちに段々頭を離れなくなってしまった作品。すんげえ追い詰められて手当たり次第に救いを求める様がそのまんま出てる。

57577で上手く分けられない感じも効果としてまた上手。上手さを追求した作品でもないんだろうが。

 

○例えば君 ガサッと落葉すくふやうに 私をさらって行ってはくれぬか 河野裕子

 

 落葉を掬う、という言葉からはなんもかんも持ってて欲しい、というイメージが湧いてくるけど、実際小学校の掃除で落葉拾いやらされてた時、落葉って両手一杯持とうとすると必ずぼろぼろ落ちていった記憶。半端に残されちゃうと、それはそれでつらいんではないかという気がする。全部持っていかれたら楽でいいよなあ。

 

この春の あらすじだけが 美しい 海草サラダを 灯の下に置く 吉川宏志

 

 上の句大賞。反面下の句はやや狙いすぎな気もする。「あらすじだけが」ってことは、内容を見ていくとめっちゃドロドロしてるんでしょうな。灯の下に置いた海草サラダはあらすじなんすかね、内容なんすかね。

 

やは肌の あつき血汐に ふれも見で さびしからずや 道を説く君 与謝野晶子

 

 説明不要だと思います。日本史の教科書で見た。これも上の句がかっこいいよなー。

 

君かへす 朝の舗石 さくさくと 雪よ林檎の 香のごとくふれ 北原白秋

 

 下の句大賞。林檎の香のごとくふれってなんだよと言いたいが、この詩的な表現が全体を一気に引き立ててると思う。ふる、ではなくふれ、と読み手の願いがこめられているあたりもとても良さがある。帰っていく人が林檎が好きだったのかな。

 

○海を知らぬ少女の前に麦藁帽の われは両手をひろげていたり 寺山修司

 

 映画かよ。うんと両手を伸ばす麦藁帽子の少年が目に浮かんでくる。われ、は海を知っているということは、帰省した先での出来事だったりするのだろうか。にじみ出る少年の夏の日の思い出感。少女は海を知ることはできたのだろうか。

 

ねじをゆるめるすれすれにゆるめるとねじはほとんどねじでなくなる 小林久美子

 

 別ベクトルで説明不要、というか説明不可能。まじでうん、そうだね、としかいえないんだけど、なんか好き。全部ひらがなっていうところが強いていえば鑑賞のポイントか。漢字だと意味が出ちゃうし。最初っからひらがなで始まるということは、最初からゆるまった状態なんだな、ということは分かるけど、でもだからなんなんだろう。

 

○遺棄死体 数百といひ 数千といふ いのちをふたつ もちしものなし 土岐善麿

 

 これも同じく当たり前のことでしかないが、文脈によって重みを段違いに跳ね上げている好例。「いのちはひとつしかない」よりも、「いのちをふたつもってるひとはいない」と言われるほうが、なんとなく納得感が増す気がするのは何故だ。

 

○手でぴゃっぴゃっ

たましいに水かけてやって 

「すずしい」と声ださせてやりたい              今橋愛

 

 可愛い歌。水をかける魂は自分のものなのか他人のものなのか。俺のたましいも涼しくしてくれ。

今回の記事、初見時(2ヶ月ぐらい前?)に気に入った短歌に付箋貼っとく→そこからさらに選ぶ、という形式を取ってるんだが、最近暑いから十選に入った感は否めない。

 

 以上十首。ほんとは10といわず気に入ったもの全部紹介したいが、付箋張ったものだけでも多分100は優に越えてしまうのでちょっと労力がない。まあ折に触れてほかの記事で見せていきたい。読んだ本のリンクは最後に貼っておくので気になったものがあったら探してみればよいと思う。

 

 短歌の鑑賞は、作者の前景・詠んだ時の場面等々を考慮に入れる派/入れない派、短歌集での並びも重視する/しないなど、色んな見方があるらしく中々奥が深そう。そのへんが厳格に決まっているわけではない(というか、最近寛容になったのかな?)というファジーさが結構はまる。

 

 ほんとは元々の短歌集を当たるべきなんだろうが、どうも苦手っぽい。我家に河野裕子さんの『蝉声』があったので手を出してみたはいいものの、同じことをちょっとずつ違ったところから繰り返されてる感じで耐えられなかった。

1首三十一文字の中に凝縮された完成度、というところが見たいのであって、そこを広げられていっちゃうとじゃあ普通の文章でいいじゃん、て思っちゃう。まあ実際あの1首1首の中にそれぞれ濃厚なものを感じ取る人もいるのだろうとは思うんだけども。

そこまでは自分のレベルがまだ足りないらしかった。

 

 

 今回は以上。一応読んだ本の内容もざっというと、『短歌をよむ』が多分一番ゆるい初心者向け、『短歌の友人』は穂村弘の独自な短歌観を説明される感じ、『近代秀歌/現代秀歌』はそれぞれ100首ずつ有名どころを網羅していくものだった。以下はリンクです。

 

短歌をよむ (岩波新書)

短歌をよむ (岩波新書)

 

 

 

短歌の友人 (河出文庫)

短歌の友人 (河出文庫)

 

 

 

近代秀歌 (岩波新書)

近代秀歌 (岩波新書)

 

 

 

現代秀歌 (岩波新書)

現代秀歌 (岩波新書)