寝楽起楽

ネタばれには配慮しない、感想/紹介ブログです。毎週1回更新 +α を目指したかった。

「未来を思い出すために/ドミニク・チェン(web連載)」を読む

 彼女の身体がはじめて自律的に作動したその時、わたしの中からあらゆる言葉が喪われ、いつかおとずれる自分の死が完全に予祝されたように感じた。自分という円が一度閉じて、その轍を小さな新しい輪が回り始める感覚。自分が生まれたときの光景は覚えてはいないが、子どもという生物学的複製の誕生を観察することを通して、はじめて自分の生の成り立ちを実感できた気もした。
 それから現在に至るまでの5年ものあいだ、わたしはこの奇妙な円環のような時間感覚の甘美さに隷属してきた。まだ一人では生きていけない彼女の成長をいつも側で見守ることによって、わたしの生きる意味も無条件に保障されてきたのだ。わたしはその間、新たな言葉を探ることを必要としなかった。(…)

わたしが求めるのは、娘が生まれた瞬間に体験した、自己が融解しながら異なる存在と接続しあう時空を表すための言葉である。この言葉を探す過程そのものをいつか娘が読むことで、自分自身の過去を切り開き、わたしの見た未来を想い出してもらえたら、とも思う。

(vol1.「はじめ」と「終わり」の時より

 

    宇宙誕生みたいな。

 今回はメモ書き的な意味合いが強いです。

 

kangaeruhito.jp

 

〇内容

 日本語とフランス語と英語とプログラミング言語と芸術とその他諸々に触れてきた筆者が、それらの習得を通じた「自分の世界の拡大・領土化」について言語理論を参照しつつ記述し、後に異なる言葉同士がぶつかりあう環世界の場、「共話」について論ずる

(現在も連載中)

 

〇感想

 悪名高くなってしまった新潮社の連載。滅茶滅茶良いのでぜひ読んでみてほしい。あくまでもエッセイなので、ガチの学術書よりは多分わかりやすい。

ムズいと思った部分は飛ばしてもいいわけだし、確かに概念的な話が多めではあるけれども、それ以上に身体的に分かる実感を大事にしつつ記述してくれているので、分かんなくても何となく読めると思う。

 

 言語理論のとこらへんはまあまあなんですが、その後のチェンさんが考えている「共話」の観念についてはあんまり理解しきれてない感。

 

①日常的に都度生成される、互いに相手の言いたいことを察しながら進める会話

②日常とは異なる空間の中で営まれ、現実における関係性を中和・変容させるもの(キャサリンベイトソンニューギニアについての事例)

 

ていう二つがあるよっていう解釈で問題ないんだろうか。

 

 

 気になる点二個。

 ①的な共話の解釈から、自己と他者の境界を曖昧にする「共」っていうことについて今の連載は進んでいってるんだけど、チェンさんの語りは「自己」に対する思いと共話についての考えは一杯書いてあって、他者についての認識がどうなってんのかがいまいち読み取れなかった。

 きっとその辺についてもすごく考えてらっしゃる方なんじゃないかと思うので、その辺も書いてくれたらうれしい。

    それとも情報学者の人としては、情報は受取手がいることが大前提で、他者については考えなくても良かったりするんだろうか。

 

 

 後「対話」ていうものについて、共話とは異なり「個々の差異を明確にしていくもの」ていう定義を引用しているんだけれども、そこについてももっと丁寧に教えて欲しい。

 

多分、身体的なコミニュケーション分類として共話を扱ってる口振りなんだけれども、そこについて感覚的にしか理解できない(感覚的に理解できれば、共話を語る立場的には十分だからそうしてるのか?)ので、それと対立はしてなくても対照的な例として対話を掘り下げてくれるとどっちも理解しやすくなるはず。

 

 

 

 

 まあなんにせよ面白かった。今後も読みます。

 

 以上。

 

 

消えていった人達:『旅芸人のいた風景 遍歴・流浪・渡世』 沖浦和光著 河出文庫 2016年(単行本2007年)

 その頃の日常風景の記憶は、薄墨で描いた水墨画のように輪郭がぼやけているが、今でも瞼に焼き付いているのは、西国街道を旅していた遊行者や旅芸人の姿である。

 西国三十三箇所めぐりの「巡礼」をはじめ、「虚無僧」「六部」「山伏」などの旅姿をよく見かけた。肩に掛けた小さな箱で人形を遣う「夷舞わし」、小猿を連れた「猿まわし」もやってきた。ドサ回りの芝居の一座やサーカスなどの旅芸人もこの道を通ってきた。

  初春には「万歳」「大黒舞」などの祝福芸人がやってきた。「太神楽」の一行も、賑やかな音曲を奏でながら街道筋をやってきた。

(本書p20-21)

 

 楽しそう。

 

 

〇内容

①ほかいびとと呼ばれる、正月に祝辞を述べる代わりに物をもらっていた乞食の存在から端を発した人々が、お遠路をめぐる修験者と混交し、更に芸能とも親和性を持つようになる

②しかし正月などの特別なハレの日以外や賤民として差別され、江戸期においては改革のたびに身分制を脅かすものとして弾圧され、明治期にも近代化を推し進める流れで廃業させられていく

③残存していた者たちも第二次世界大戦を契機に消滅し、わずかにテキヤや落語などとして今に残った

という流れを、1927年生まれの筆者が自分が見聞きした思い出を交えつつ記述する

 

〇感想

 以前紹介した夏井いつきさんの本の中で傀儡師という芸能について触れられており、旅芸人についてなんとなく興味を持ったので読んでみた。

 

 200pちょっとの短い分量の中で簡明に旅芸人についてまとめられており、適当に手に取った割に入門書として最適でよかった。

 

 川端康成の『伊豆の踊子』が旅芸人と大学生(当時は高等)の身分差をよく知ることが出来るとか、今まで点だけで見てきていたことが繋がる感覚もあり、多分読むタイミングがぴったりだったんだと思う。

 

 予祝芸をしていた人たちが平時にはマージナルな人々として疎まれてたとかって根幹には、倫理だけでは推し量れない感情があったんだろう。

 実際、現代に特別な時にだけ現れては芸をして去っていく人々が居たとしたら、「なんか怖えな」と直感的には思うだろうし。

 

 一方で、ガマの膏売り(真剣で自分の腕を切った後に、薬で血を止めてみせ効能を示すことその薬を売り歩いた人々)の「機関銃のようなシャベクリ」に往来の人々が足を止めて聞き入った様子や、まだ若くリズムに乗れない膏売りに野次を飛ばしどやされた記憶など、昭和初期にはまだ残っていた旅芸人の居た人情の匂いがする風景も本書で活写されており、味わい深いものがある。

 

   検索をかけると伝統芸能として今に伝わったガマの油売りの口上や実演を見ることができるけれども、筆者はこれについて「上手いけれども、売らなければいけないという切迫感が無い」という趣旨のことを述べている。

いくら保存をしようとしても、変容してしまうことがある示唆と思う。それは受け入れるしかない。

 

 平成生まれの自分はこうした人々の経験値は非常に少なく、わずかに小さい頃イオンモールなどで猿回しを見たおぼろげな記憶しかない。

 

 試しにネットで検索すると、今でも(細々と、かもしれないが)旅芸人の人々は「一座」に形を変えながら、きちんと活動しているようで安心する。

 

 後前見つけたこれとかも思い出した。


 

   なんかの機会になんか見にいってみるか。

 

以上。

 

  

哀愁背負うマン:『若山牧水歌集』 伊藤一彦編 岩波文庫 2004年

・白鳥は哀しからずや空の青海のあをにも染まずただよふ

哀愁牧水。

 

 

若山牧水歌集 (岩波文庫)

若山牧水歌集 (岩波文庫)

 

 

○内容

23才~43才までの間に出した十五冊の歌集から1700首を選出。

 

○感想

 冒頭に挙げた「白鳥」しか知らずに若山牧水好きとか言ってるようじゃいかんと思い、読了。

 

 牧水はいついかなるときでも悲哀を持つ人である。

 

・われ歌をうたへりけふも故わかぬかなしみどもにうち追はれつつ

 

 そもそも創作の源泉がかなしみだし、

 

・おもひみよ青海なせるさびしさにつつまれゐつつ恋ひ燃ゆる身を

 

 人妻に恋をするという道を歩んでしまったせいで苦しむし、

 

・きさらぎや海にうかびてけむりふく寂しき島のうす霞みせり

 

 趣味である旅をしてもこういうところに目がいき、

 

・たぽたぽと樽に満ちたる酒は鳴るさびしき心うちつれて鳴る

 

 酒を飲むとかえって寂しさがまし、

 

・しのびかに遊女が飼へるすず虫を殺してひとりかへる朝明け

 

 女遊びをしてもなんか闇落ちしてるし、

 

・膝に泣けば我が子なりけりはなれて聞けば何にかあらむ赤児ひた泣く

 

 自分の子どもの泣き声に同調までしてしまう。

 

 ただ牧水がその辺の太宰治にあこがれるこじらせ文学男子と違うところは、女々しくはないというところ。

 

・みな人にそむきてひとりわれゆかむわが悲しみはひとにゆるさじ

・幾山河超えさり行かば寂しさの果てなむ国を今日も旅ゆく

 

 寂しさ、悲しさは絶対に消えないという確信から彼は出発している。

歌の比重がこれらに偏っているのは、牧水がそれらから逃げなかった証明としても読むことができると思う。

 

 また牧水の歌は輪郭が非常に明瞭でわかりやすいことが特徴。 これは、歌いたい対象が本人の中ではっきりしていることからくるのかもしれない。

 

・一心に釜に焚き入る猟師の児あたりをちこちに曼珠沙華折れし

 

 こうした風景を詠んだものにしても、取り扱う題材は如何にも叙情めいたものばかり。

ただ、並の人ならただその風景の一部を言葉にしただけで終わってしまうところ、牧水の歌は、その背後にある風景全体がぱっと脳裏に浮かんで来る。

 

・菜をあらふと村のをみな子ことごとく寄り来りてあらふ温泉(いでゆ)の縁に

・人の来ぬ夜半をよろこびわが浸る温泉あふれて音たつるかも

 

 前者は「ことごとく寄り来る」からかしましく雑談に興じながら手を動かす女性たちが、後者からは湯が溢れていく音はもちろん、湯につかり身体を伸ばしてしみじみと温まっている感じ、もうもうと上がる湯煙や、人によっては遠くに山を望み星がまたたき、虫の声が聞こえてくる露天までを想像するかもしれない。

 

 これはおそらくわかりやすさが一個極まっているために、読者それぞれが持っているイメージと瞬時に同化してしまうからだと思う。

そしてそれは、現代短歌が全体的に歩んでいこうとしている方向とはたぶん正反対の位置にある。

 

・人の来ぬ谷のはたなる野天湯のぬるきにひたるいつまでとなく

 

 今は人が来ない道かもしれないけれども、なんとなくこのぐらいの立ち位置でずっとこうした歌は残っていってほしいと思った。

 

図らずも温泉の歌が多くなってしまった。

 

以上。

 

公開ラブレター:『花は泡、そこにいたって会いたいよ』 初谷むい 書肆侃侃房 2018年

・ひらかれてひらきっぱなしの欠陥でもう誰といたってねこじゃらし 

遠いな~

 

 

花は泡、そこにいたって会いたいよ (新鋭短歌シリーズ37)

花は泡、そこにいたって会いたいよ (新鋭短歌シリーズ37)

 

 

〇内容

 新鋭短歌シリーズ27弾・初谷むい(1996年生まれ)の第一歌集

 

〇感想

 短歌界では発売以来結構騒がれてるっぽい歌集で、実際注目されるだけのものはあると思うんだけども、個人的には、

 

エスカレーター えすかと略しどこまでも えすか、あなたの夜を思うよ

ジュンク堂追いだされてもまあ地球重力あるし路ちゅーも出来る!

 

 こういったあちらこちらで取り上げられている初谷さんの代表作だけみて、自分から遠すぎるのではないかという懸念があり、今まで手にとってはこなかった。

 

 が、食わず嫌いはいかんし、遠いなら遠いでその遠さそのものを楽しめばいいのではないかと思い直し、今回手に取った次第。

 

 考察に入りますと、

 

・ふるえれば夜の裂けめのような月 あなたが特別にしたんだぜんぶ

・手を繋ぐゆめのそのまま好きになる消えてしまうけれど好きになる

 

 これらの歌に見られるような、(特に恋愛における)一瞬一瞬の完全性、みたいなもんをうたってる奴。

 

例えば河野裕子さんの、

 

たとへば君 ガサッと落ち葉をすくふやうに私をさらつて行つてはくれぬか

 

 この歌と比べてみると、河野さんは最初からそうした完全性をあり得ないと認識したうえで、それへの羨望をちらとのぞかせているように見える。

 

しかし初谷さんの場合、そういう瞬間ありきで歌を詠んでいるようなところがある。

 

 短歌のことを好きになったのは、放っておけばあっという間に消えてしまうような瞬間のゆらぎが、ひとつの調べの中に湧き上がって、それがとてもうれしかったからです。すべてのものは変わるけれど、ほんとうのことはどうがんばっても正しくあなたに届かないけれど、キーボードをぱちぱちと叩いて、そこに浮かび上がる言葉にはなんだか救われたような気がしていました。

(あとがきより)

 

 こういう意識で、つまり最初から「保存してやろう」というような気持ちで歌を詠んでいるような人、にわか知識の範囲では今まで居そうでいて見かけなかった気がする。

 

・生きていてのんふぃくしょんじゃんのんふぃくしょんあたしたちのんふぃくしょんなんだ

・酩酊。酩酊。このこえはおのおのだいじにしてほしいことばをいまからつたえるこえです

・せおりい「どうせだったらこのまんまあわあわあわになっておしまい」

 

 そういう目で読んでみると、例えばこれらの歌も、ほんとにごく単純な一瞬の気づきだったり感情だったりを、思うがままに歌にしている結果という風に見える。

 

・カーテンがふくらむ二次性徴みたい あ 願えば春は永遠なのか

 

 だからといって、それらは思いついたものをそのまま形にしているわけではなく、これなんかは推敲をしないと作れない歌だと思うんだけど、しかし、時間を置いて作っていることが却って、その背後に作為性を感じさせてしまって面白くない、ともいえるかもしれない。

 

 そういう意味では冒頭であげた「ねこじゃらし」のやつとか、わけわからんけど、そういうまんまのほうが面白いのかも。

ただこういう歌、好きな歌一首あげてください、と言われたときに絶対にあげられないよな。好きな理由を説明できないし。

 

 

今回は本文中に歌をいくつかあげてるので、歌紹介コーナーは一首だけ。

 

・うろこ、ってぬぐってくれた 二人ともそれが涙とわからなかった

 「わからなかった」っていうのは絶対に欺瞞である(だって歌を詠んだ時点では「涙」っていってるし)が、嘘と知りながらそうしている、その努力が尊いと思う。

 

以上。