寝楽起楽

ネタばれには配慮しない、感想/紹介ブログです。毎週1回更新 +α を目指したかった。

何時間でもプレイ可:『ゲームSF傑作選 スタートボタンを押してください』 D・H・ウィルソン&J・J・アダムズ編 仲原尚哉・古沢嘉通訳 創元SF文庫 2018年

 「なにやってるの」わたしはいった。

 「 『ダイヤモンド・ナイツ』のパスワードがないかなと思って」トードは慌てて答えた。

 「おまえ、ソリーのキャラのアイテムを全部自分のキャラに移すつもりだっただろう」デッカーが言った。「最低な奴だな。葬式に来てるんだぞ」

 「たしかに俺は最低だ。みんな知ってる。でもパスワードは見つけてない。かわりにみつけたのがこれ。デスクトップにあったんだ。見てよ」

 わたしたちはコンピュータの前に集まって画面を見た。

 

 『ラザロのゲーム』

 ソレン・カープ

 

 きみたちは悲しんでいる

 >|

 

 「あいつ、ゲーム作ってたのか?あいつがゲームつくってるって、誰か知ってたか?」

(本著「1アップ」p 80-81)

 

  ゲームの出だしって無条件にわくわくするよね。

 

 

スタートボタンを押してください ゲームSF傑作選 (創元SF文庫)

スタートボタンを押してください ゲームSF傑作選 (創元SF文庫)

 

 

○内容

 ピース又吉が絶賛、SF賞3冠の『紙の動物園』のケン・リュウ、ハリウッド映画化とかまでしてた『ALL You Need is Kill』の桜坂洋、一人火星に取り残されて絶望するかと思いきや生活をエンジョイしはじめる『火星の人』のアンディ・ウィアー等々の豪華執筆陣がゲームを題材にSFを12編書いた。

 

○感想・考察

 ゲームを使って何かをする、ゲームが現実化する、そもそも現実がゲーム的である、という発想の方向性自体は予想外なものは無かったけど、料理の仕方がそれぞれ独特で楽しかった。

 

 いつもよりさくっと世界に入りやすかったのが驚き。ゲームってある程度のお約束事が存在するもんで、それを了解してるかしてないかで効率が著しく変わったりするけれども、小説の媒体におとしこんでも、そのゲームの暗黙のルールが殺されずに息づいているというらしい。

途中からは小説読んでるというよりゲームやってる気分になってた。なので、本なんか読まねーよヘッドショット決めてるほうが楽しいだろ、とかって人にもお勧め。

実際テキストアドベンチャーなんてジャンルがあるし、ゲームと小説って相性いいんでしょうね。

 

 「救助よろ」「1アップ!」「猫の王権」「キャラクター選択」「時計仕掛けの兵隊」の5編が特に好き。

 

 原著は元々26編あって、そこから12編を選んで今回収録したとのことなので、多分売れ行きよければ『Ⅱ』が出るから、読みたいので皆さん買ってくれ。

 

 後ついでにゲームSFだと

 

 

ザ・ビデオ・ゲーム・ウィズ・ノーネーム

ザ・ビデオ・ゲーム・ウィズ・ノーネーム

 

 

 こちらもお勧めしておく。2115年の視点からそれ以前に出た架空のゲームを貶して褒めて愛を語るという、面白いコンセプトです。

 カクヨムにweb版があるのでまずそちらでチラ見してもいいかもしんない、というか自分もまだ書籍版買ってない。『紙の動物園』も積ん読だし『火星の人』も未購入だし。読むほどに読むべき本が増えていくというスパイラルに最近陥りつつある。

この沼、金がかかるんだよなあ。

 

以上。

 

これが直木賞作家だ!『この話、続けてもいいですか。』 西 加奈子 ちくま文庫 2011年

 私の父の、酔ったときの口癖は「そういう世界」です。そのときのポーズも決まってます。親指を突き立てない「グー」サイン。ハタから見れば握りこぶしに力を入れているだけのような状態で、元気に「そういう世界!」 。どういう世界?私の統計によると、言葉に煮詰まったとき、自分が何を話していたかわからなくなったとき、人の話を聞いていなかったときなどに使います。例えば、「(父・泥酔)いやぁ、僕が言いたいのはね、僕は、トルコが好きっ」「(私たち・素面)トルコが好き?なんで?」「(父・泥酔)……そういう世界っ」

(p56)

 

 使いてえ~~。

 

 

この話、続けてもいいですか。 (ちくま文庫)

この話、続けてもいいですか。 (ちくま文庫)

 

 

 

〇内容

 「サラバ!」で直木賞受賞、その文庫化で再び話題になっている西加奈子さんの、若さ溢れるエッセイ集。

 

〇感想

 個性豊かな人物が続々登場。

 

 部長のY君。中学のときは「古墳クラブ」に所属、校庭の隅で思い思いの古墳を作り、先生に「これだと、石室はどこに置くのかな?」などと指摘され、最初からやり直すという、大変有意義で、人生の役にしかたたない経験をしています。

(p61)

 

 こんなん笑うしかないじゃん。石室にこだわって作り直しとか、ちゃんと真面目に部活動してるとこがほんと良い。

 

 そういう人物をちゃんと拾い上げて笑いに変えることが出来る、西さん自身は恐らくはとても素直な人である。

 

 だからこそ西さんの気持ち、「楽しませたろう笑かしたろう」というサービス精神は衒いなく文章からそのまま伝わってくるし、また同時に「こんなんだけど自分、ほんとにこれでいいん だろか?」的な思考も同時に駄々洩れで、人間性の複雑さ的なものも一緒に味わえてしまうという、大変お得なエッセイ集。

 

 「サラバ!」まだ読んでないんだけど、この人の書いた作品なら読んでみたいと思わせてくれるような一冊でした。

 

 以上。

言葉の円盤投げ:『熊の敷石』 堀江俊幸 講談社文庫 2001年

 木の鎧戸にくりぬかれた菱形の穴から、形どおりの幅でやわらかい光の筋が素焼きタイルの床に落ちていた。部屋の空気じたいはきれいに澄んでいてむしろ涼しいくらいだったが、壊れてのばすことのできなくなったソファーベッドの背もたれに顔が密着するような窮屈な恰好で寝ていたせいなのか、それとも奇妙に現実感のある夢のせいなのか身体中が火照り、喉が渇き、そして夢と同じように右の奥歯がうずいた。テーブルのうえの置時計は、もう九時半を回っている。ヤンが出ていったことに、私はまったく気づかなかった。ゆっくり起きだして洗面所に行き、壁に作りつけられた両開きの棚からいつのものだかわからないアスピリンを探し出して水道水を注いだコップに投げ入れると、細かい空気の泡が音を立てて勢いよくわきあがり、その大半がぶつぶつと宙に消えたのを見届けてから舌にかすかな刺激のある即席の水薬を飲み干した。

(本著p11-12)

 

 解説の人(今回は川上弘美さん)と注目した文が一致すると嬉しい現象。

 

 

熊の敷石 (講談社文庫)

熊の敷石 (講談社文庫)

 

 

〇あらすじ

・フランスに「停泊」中の旧友ヤンとの久方ぶりの交流:「熊の敷石」

・死んじゃった友人の大きくなった妹とその子供と砂の城を作る:「砂売りが通る」

・「城侵入しようぜ」「おk」:「城址にて」

以上3編。

 

〇感想・考察

 些細なことを特別凄いように見せて書く作家は多くいるけれども、些細なことをそのなんでもなさのまんま料理してくる人は中々居ないと思うけれども、堀江さんはその一人という感じ。

 

 一回目はぽけーっと読んでたら急に話が終わって、え?あ?へ?は?となった。読み手にも技量を要求してくるのはいかにも芥川賞感ある(※個人のイメージです)。明治大学の教授でもあるとのことだが、堀江さんの仕掛けてきた試験に私は不合格だったな、これ。

 

 つー訳でちょっと頑張って考えてみると、「熊の敷石」のメインテーマは言葉のキャッチボール、ではなく言葉の円盤投げなのであろう。

 

 円盤投げにも競うという要素はあれども、基本的にはどこまで飛距離を伸ばせるかというのは個々人の問題である。投げる、ということのみに固執している「私」は、つまりヤンのことは見ているようで見ていない。

例えばヤンはユダヤの話にこだわっているが、「私」はそれに対しいまいちピンときておらず、そしてそれはそのまま私たち読者にも共有されてしまう。

 

 作中のラ・フォンテーヌの熊の敷石の寓話は、熊が老人にまとわりつく蠅に対し敷石をぶん投げたことで老人を殺してしまう話だ。転じて、余計なおせっかいのことをフランスではそういうらしい。

 

 「私」とヤンにそのまま当てはめると、熊=私、ヤン=老人となりそうなものだが、しかし、実際にはヤンが旅立った後、その友人が出してきたケーキによって激痛を覚えるのは「私」のほうである。

ヤンは間違いなく「私」とちゃんとコミュニケーションは取れていないという思いを抱えていたのだろう。しかし、ドッジボール程度には彼の言葉は届いていることがここから察することが出来る。

 

 つまり結局のところ、どこまでいっても「熊の敷石」は私の一人相撲の話であり、それを余計なおせっかい気味にヤンが教えてあげた、というところで終わっている。そういう意味ではむしろ物語が始まる(主人公が変わっていく)のはここからであり、「熊の敷石」が物足りないと思う人が一定数居るのはそのあたりが原因かと思われる。

 

 そういう意味でいうと、「砂売りが通る」「城址にて」のほうが面白い、という感想はとても理解できるところだった。よくわかんないけどわかる、ぐらいには適当読みでもいけるので。

 

以上。

 

本を焼き、心を焼き:『華氏451度』 レイ・ブラッドベリ 伊藤典男訳 早川書房

 火を燃やすのは楽しかった。

 ものが火に食われ、黒ずんで、別の何かに変わってゆくのを見るのは格別の快感だった。真鍮の筒先を両のこぶしににぎりしめ、大いなる蛇が有毒のケロシンを世界に吐きかけているのを眺めていると、血流は頭の中で鳴り渡り、両手はたぐいまれな指揮者の両手となって、ありとあらゆる炎上と燃焼の交響曲をうたいあげ、歴史の燃えカスや焼け残りを引き倒す。シンボリックな451の数字が記されたヘルメットを鈍感な頭にかぶり、つぎの出来事を考えて、目をオレンジの炎でかがやかせながら昇火器に触れると、 家はたちまち猛火につつまれ、夜空を赤と黄と黒に染め上げてゆく。彼は火の粉を蹴立てて歩いた。夢にまで見るのは、古いジョークにあるように、串に刺したマシュマロを火にかざしてぱくつきながら、家のポーチや芝生で、本が鳩のようにはばたきながら死んでゆくのをながめること。本がきらめく渦を描きながら、煤けた黒い風に乗って散ってゆくのを眺めることだった。

(本著p11-12)

 

 かっこいい……。

 

 

 

 

〇あらすじ

 本が禁じられた世界で本を燃やす仕事、昇火士に従事していたモンターグが、ある日妄想好きな女の子に出会ったことから段々と世界に疑問を覚えるようになり、やがて色々するようになる

 

〇感想・考察

 

華氏451度――この温度で書物の紙は引火し、そして燃える。

 

↑この裏表紙のあらすじの出だしすらもかっこいい。

カッコイイ―って言ってたらいつの間にか読み終わってた。そんな感じ。

 

 SFというと『サイエンス』・フィクションだから、なんかマニアで硬いイメージがつきがちだけれども、手を出してみると全然普通に楽しめる。

 中二心をくすぐってくるフレーズが一杯あるので、ラノベから一歩進んだ本が読みたい!とかそんな人にもおすすめ。

 

 凄く素朴に、レイ・ブラッドベリさんは本の可能性を信じていた人なんだろうと思う。そもそも危険とみなされなきゃ本を燃やすって発想にも至らないわけだし。

 

 しかし自分がこの世界に居たらやっぱり本は多分こっそり持ってただろうな。本と心中してる人が作中には出てくるけど、実際「読めなくなるか、死か」みたいな状況になったら割と悩むよねえ。世間の本好きと比べると全然読書してないんだけど。

だから老眼になったらどうしようっていうのが今一番の悩み。

 

 「よく、考えるんだよ。祖父が亡くなってしまったせいで、いったいどれくらいのすばらしい彫刻がこの世に出ることなく終わってしまったのだろう、どれくらいの冗談がこの世から失われてしまったのだろう、祖父の手のぬくもりをしらない伝書鳩はどれくらいいるのだろう、とね。祖父は世界をかたちづくっていた。たしかに世界に働きかけていた。世界は祖父が亡くなった晩に、一千万もの素晴らしいおこないを失ってしまったんだよ」

(…)

「人は死ぬとき、なにかを残していかなければならない、と祖父は言っていた。(…)お前が手を触れたものとはちがうものに、お前が手を離した後もお前らしさが残っているものに変えることが出来れば、なにをしてもいいと」

(本著p260-261)

 

 本を燃やすというモチーフからは、前紹介したこの本↓を思い出す。

 

marutetto.hatenablog.com

 

 この小説の中の本を焼いたのも、やっぱり華氏451度の炎だったんだろうなあ。

 

 『華氏451度』も『密やかな結晶』も、「伝わってきたものをちゃんと伝える」ことが大きな命題としてあるけれども、その描き方はだいぶ違くて、でも同じ物語として読むことも出来て。

 

 後の経験が前に読んだ本の考察を深めたりする、こういうことがあるからやめられねえんだよな。でもブログ書いてなかったら多分忘れてた。ブログ万歳。

 

以上。