寝楽起楽

ネタばれには配慮しない、感想/紹介ブログです。毎週1回更新 +α を目指したかった。

このブログ、気づけば10年目らしい

さっき急に気づいたのだが、このブログは今年度で10年目になるらしい。じゅうねん……10年ブログを継続したことよりも、その間に私が18歳から28歳になったということのほうが、私にとっては衝撃的である。もう28かよ。こわ。

 

とはいえ、10年ブログを続けたことに対しても、感慨めいたものがないわけではない......と続けようと思ったのだが、自分の心にちゃんと聞いてみると、正直なところ感慨は言うほどにはない。ただ、年月云々は関係なく、更新頻度はまちまちでもなんだかんだと続けてきたこのブログ自体に、ちょっとした愛着は抱いている気がする。このブログ以前に2、3のブログを作り、すべて短命に終わった経験があるだけになおさらだ。

 

思い返すに、私がはじめてブログを作ったのは確か小学校高学年の頃だった。たぶん、そのころから何がしかアウトプットすることに関心があったのだと思う(もうなんも覚えてないので、あくまでたぶんだけど)。が、子どもだった私が継続できるはずもなく、そのブログはネットの藻屑と消えた。さらに中高時代にも2、3回「やってみっか」と思ったことはあったものの、それらも同様の運命をたどったと記憶している。そんな失敗の末に、

 

・大学生になる年齢になってやっと最低限の根気がついた

・かつ、(確か)出版業界に入りたいなら文章を書いたほうがいいよね、というモチベーションも設立当初からおぼろげにあった

 

という2つがかみ合い、ここまでやってこれたっつうことだろう。

 

デザインについてはその時の気分でいじったりしたものの、「寝楽起楽」というブログタイトルは設立当初から変わっていないはずだ。言うまでもなく造語だが、今でもこの文字面のニュアンスは結構気に入っている(なお今更だが、ねらくおきらく と私は読んでいる。が、好きに読んでもらって別にいい)。

 

で、10年もやっていればそれなりにたまるもので、いまこのブログには214の記事があるらしい。へぇぇ~。本記事は215記事目である。へぇぇぇ~。

その内容は、「本、その他の感想/紹介、あとは読んでる人がどう思うのかわからん雑記とかポエムとか雑論とか」というコンセプトに変わりはない......と言いたいのだが、残念なことに去年、今年と、本もその他映画やらなんやらも一個も紹介していない。これは、「感想/紹介ブログ」と概要文に書いている身としては、かなり由々しき問題なのではなかろーか。

 

ただ率直に言うと、最近は「感想/紹介」を記事にするモチベーションがあんまりない。このブログをやってたおかげで(???)出版業界の末席に一応座れたのだが、作り手側に回ってみると、こう、オープンに開いた場で好き勝手にものをいうことがちょっと怖くなるというか。これは本音は「面倒くさい」というだけのことをもっともらしい理由をつけてるだけかもしれんのだが、広い意味での利害関係者が素知らぬ顔で「良い本でした!」とかいうのはなんかムズムズするもんがある。

 

後もっと単純な理由として、本の紹介記事を書くのってあんまおもしろくないんじゃね? と思い始めたというのもあるかもしれない。就職以前はそれも「あるものについて感想を一応形にしておく行為が、今後意味を持つときはあるだろう」という動機があったりしたが、就職できちゃったからなぁ(ほんとのこというと、就職してからのほうがそういう能力は大事なんだけど……この辺に、私の社会人・業界人としてのダメさ具合が現れている)。

 

ということで、今後もこのブログ自体は続けたいし、本の紹介もできるならしたいんだけど、そのやり方とかはちょっと変えていくかもしれない。いままでも何個かこの形式で書いているけれども、本の紹介を主眼に作っていた記事を、「本の内容の一部を取り出して雑論につなげて、そっちを主眼にする」とか。あと、最近はにわかに私の中で歴史学習ブームが起きていて、ひょっとしたら歴史についての疑問をなんやかんや適当に書く記事とかも書いたりするかも。

 

ざっと思いつくままに書いたが、結局のところ予定は未定である。どうするかはその時々の私にしかわからない。この「なんでも適当にやっていい」という部分が、10年目を迎えられたポイントかもしれないとも思う。

 

記事数200ちょい、読者数52、月のPV平均100ぐらい、という数字は、調べてないけどはちゃめちゃ少ないほうだろう。ただ逆に、(過半数は自分だったり、自動クロールだったりだろうけど)何人かはどうやら見てくれていたりするらしいことが、なんだかんだと嬉しかったりもする。これからもゆるっと書いていくので、ゆるっと読んだり読まなかったりしてくれれば幸い。

 

では~。

インプットの量と質

「普段関わりのない領域について情報を収集し、企画を立てる」という仕事の性質上、日がな一日今まで聞いたことのない記事やら本やらを眺めていることも多い。

自然、一日のインプットは超膨大な量になる。それらすべてを裁こうとすると、一つ一つについて吟味するというよりは、次から次へと自分の中を通り過ぎさせる、という姿勢のほうがデフォルトになりやすい。

 


こうした場合に課題になるのは、アウトプットである。私の仕事におけるアウトプットは、企画書、引いてはその到達点である書籍として生まれるが、そのためにはインプット量のみならず「質」に目を向ける必要がある。しかし、ここでいう質とは「私自身がどこまでその資料を理解し、どこまで深く考えたか」ということではない。

 


企画や書籍を作るのは、私のためではなく、読者であるあなたのためである。そして、あなたのために書くのも著者であって、私ではない。書籍プロジェクトにおいての私の役割は、「読者のための本をあなたに書いてほしい」と誰かにお願いする、つまり読者と著者を繋ぐことが中心だ。

さてこのとき、必要性だけの観点でいえば、その中に私自身の個人的な思想や考えが入る意味はまったくない。ゆえに、企画制作時にインプットする記事や書籍の内容、また最終的なアウトプットである書籍の中で述べられる事柄を私がまったく理解できなくとも、書籍を制作することは別に可能である。※

私が見極めるべきは「著者候補の質(=想定している読者対象に対して、その人の語れる物事が、良い資料になりうるかどうか)」であって、内容そのものではない。もし私が企画時点で内容を完全に理解できるのであれば、その書籍は私が書けばいいのであって、著者に頼む意義がない。

 


ただあくまで「個人的な思想が入る必要性はない」というだけであって、記事や書籍を次々に眺めている時に、仕事とは一切の関係なく、ごく私的な学びの思考が立ち上がることはしょっちゅうある。大抵の場合、それは次から次へと目の前に表示する情報の中に埋もれていくのだが、その断片が企画の中に入ることだって頻繁だ。

 


だが、それで消化できる物はごくわずかだ。大半は切れ切れの、半端な思考の萌芽のままに、私の中に沈殿していく。そして不思議なことに、時にそれらが私に、「形にしろ」と訴えかけてくることがある。そしてそれはまた、理由もなく行き場のない、焦燥感(もどかしさと言ったほうが適切?)を私の中に呼び起こす。

 


今、仕事の昼休みにスマホでこうしてちまちまと文章を打っているのは、まさに先ほど焦燥感を覚えての発散なのだが、しかし、こんな対処療法では騙せない日が、いつの日かやってくるのだろうか。

 


※「可能である」だけであって、「だから何も理解しなくていい」ということにはならないことは念のため付記しておく。

社会人・楽器未経験からチェロを2年半習って得た気づき

社会人2年目の7月、仕事にもちょい慣れたぐらいのころからチェロを習い始めてはや2年半が経った。学校での音楽の授業や体験レッスンだったりを除いて、本式で楽器に触れるのはこれが初だ。

 

習い始めに調べた折では、「社会人でチェロを習い始める人」はそこそこ居るものの、その多くが他の楽器の経験者だったり、あるいは中高時代にちょっと学んでいたのを引っ張り出してきたりで、ガチの未経験からの体験記はそんなに多くなかった。

そこで自分の記録として+(一応)「これから楽器始めたい人」に向けて、2年半での気づきをまとめようかなとおもったしだい。

自分が思いついたトピックをつらつら書いていくので、網羅性は期待しないでほしい。

 

なお、私の音楽経験の現状は以下の通り。

 

・月3回×各1時間のレッスンを受講

・週に計約2.5時間くらいの自主練(だいたいレッスン前)

・(自主練月10時間 + レッスン月3時間)×30=計390時間くらいの練習量

・楽器は所持済(レッスンを受け始めて4カ月後くらいに購入)

・(チェロわかる人向けに)教本の進度は以下

 ヴェルナーのチェロ教本→ p.45

 スズキチェロ教本→ 3巻の3、4(ボッケリーニのメヌエットと、4ポジで弾く荒城の月)

 

ではこっから「音楽練習の内容面(弾くことについてとか)」と「音楽練習の形式面(費用とか負担とか)」と「その他」の3つに区分して、思いつくままに書いていく。

 

◾️内容面 

●身体を操作すると音が出る/音は身体で感じ取る

「あたりまえじゃん」と思うかもだが、実際やってみるとこんなことにもびっくりするもんである。

チェロは弦楽器の一種で、張られた弦を弓の毛で擦ることによって音が出る。で、その弓は右手でもって動かすわけだが、「自分の身体の動きに呼応して音が出る」というそれだけで、特に初期のころはめちゃ面白かった。

しかも、ただ「音を出す」というだけなら別にどうやったってできるところ、「いい音を出す」にはけっこうきめこまかい身体の動作が必要になる。言葉で表現すれば、

 

・弓を持つ右手は脱力して、チェロにそっと置くイメージ。力ではなく重みの乗せ方によって強弱を出す。弓を動かす時は手首ではなく肩から

 

とかになるわけだが、こういう一つひとつを教わるたびに「へぇ~、楽器を弾くって身体運動なんだなぁ~」と思えておもしろい。

また、(これはチェロならではかもしれないが)自分が弾いている音が一番よく聞こえるのは、一番真近にいる自分自身、というのも楽しい点だと思う。特にチェロは、自分の身体に楽器をもたせかけるようにして弾くので、自然、楽器の震えそのものを身体で受け止める形になる。これがけっこうテンションが上がる。

(半面、弾いているときに聞いている音は録音して聞く音の何倍もうまく聞こえているので、客観的に聞くとすごいテンションが下がりもする)

 

●弾いている時の心は、ちゃんと音に現れる

上の身体的なところだけ気を付けておけば「いい音」になるかといえば、そういうわけではない。集中して弾いていなければ音は雑になるし、「ここはやさしい感じで弾こう」とか、そういうイメージは音にちゃんと現れる。「なにわかったようなこと言ってんねん」と思うかもしれないが、例えば「今日弾いてて楽しー」というときは音がいい感じになる、ていうのは直観的に分かりやすいところじゃないかなと思う。

●心も体もどっちも大事

ということでまとめると、いい音を出すには「心と体(と技?)」のすべてが重要、ということになる。この2つは、たぶん相互に補完しあっている。

たとえば、「もっとやさしく」といった指導は初期から言われはしていたが、正直「やさしくってどうやるんだ??」と思いながら見様見真似で、という感じではあった。それが「ああ、やさしくってこうか」と段々感じがつかめてきたのがこの1年くらい、という実感がある。これは心と体の両方が、ちょっとずつ音楽に適応してきた結果だろうと思う。

 

●音程を正確に弾いても、ただ弾くだけでは曲にはならない

先にあげた3つは個々の音についてを念頭に書いてきたが、一つの曲という単位でみても、同じことがいえる。

ある曲を与えられたときに、いくら音程だけを正確に引いたとしても、それはどこまでいっても「子供の学芸会」の延長でしかない(ばちくそうまい子供もいくらでもいるけど)。音程は合っていることは前提として、その曲のことをちゃんと解釈して、曲ごとの聞かせどころを意識して、細部まで注意できてはじめて聞いていて心地いい曲になる。めっちゃむずいけど、たぶん、最終的な到達点はここだろう。

(……なおここで、「音程だけ取った場合」と「曲として成立させようとした場合」でどれだけ音が変わるのかの実例見せられるかな、と思って録音したものの、僕のレベルでは大差なかったので共有できなかったことを付記しておく。悲しいね!)

●音程を取るのはくそむずい

やたら意識たかいことを書いてきたけど、「とはいえ」という話その1として、楽器、めちゃむずい。音程ですらまともに取れない。

しかもチェロはギターでいうフレットがなく、「どこをおさえればなんの音が出るか」というとっかかりがない。正直ずっと勘でやってる。この先勘から脱出できる見込みもあんまりない。うわ~~~

 

●そもそも楽譜をいまだに読めない

とはいえその2。これは我ながらびっくりなのだが、「リズムが取れない」とか以前の問題として、いまだにどのおたまじゃくしがどの音を指しているのかを把握しないままレッスンを受けている。「続けてればそのうち自然に読めるようになるだろー」と思っていたのだが、ならないままここまで来てしまった。

それでなんでここまでやってこれたかというと、(これもたぶん弦楽器特有?で)「楽譜に指番号が振られている」からだ。つまり、「このおたまじゃくしはこの指でおさえて弾けばいいですよ」という指示が楽譜にあらかじめ書かれているので、「その指をおさえると何の音が出るのか」がわかっていなくても弾けてしまう。

……が、半年ほど前から徐々に指番号が振られていないゾーンに教本が突入しはじめたため、しょうがないのでちょっとずつ覚えようとしている、というのが現状である。

 

●意識すること多すぎ

ただでさえ楽譜がちゃんと読めないのでワンテンポ遅れがちなのに、それに加えて「これはスタッカートで」とか「徐々に音大きく」とか「アクセントつけて」とか「ここの弓はアップじゃなくてダウン」とか「ここはつなげてこっちは離して」とか、もはや混乱の極み。実際その辺意識するとうまくなるのは確かなのでがんばるしかないのだが。

 

●どんなにかんたんな曲でも弾き切るのめっちゃむずい

上のようにいろんなことを意識しようとすればするほどミスは増える。結果として、「ミスなく弾き切る」ことがいかに難しいか、がとてもよくわかるようになった。ほんでたぶん、うまくなればなるほど意識することは増えていく = どんなにかんたんな曲でも、「弾き切る」最終形に終わりはないんだと思う。むずいね~~

 

■形式面

●月3回というレッスン頻度は(楽器の上達を考えれば)適切

そもそもレッスンを月3回にしたのは「まったく練習しなくともある程度上達できそう」で「俺はたぶんあんまり練習しないだろう」という確信があったのだが、これは完全に読み通りだった。

これがたとえば「月2回」であれば「隔週に1回」のペースだが、次のレッスンまで2週間あると、最初の1週間は楽器を触らずに終わる可能性は(私は)高い。それが月3回だと、「毎週レッスンがあって、たまに隔週になる」という体感のため、あんまりさぼれない。

ただ、現状レッスンを土日にいれている関係上、月8回ある「1日自由に使える日」のうち3日が問答無用で潰れる、というのは正直負担といえば負担ではある。たとえば旅行とか気軽に行けないしね。

ただ、もともとそんなに外出するほうでもないので、レッスンがなかったら一日家でだらだらするだけな気もしている。

 

●費用もけっこう馬鹿にはならない

まずレッスン料がかかる。自分の楽器がほしいならその楽器代もかかる。楽器は買って終わり、ではなく、メンテナンス代もそこそこかかる(チェロは一回につき万単位で飛ぶ)。あと年に2回ある練習発表会も曲者で、こいつも参加すると万飛んでったりする。趣味にかける費用としてはそんなに高くないかもしれんけど、とはいえ出費は出費であるのは確かだ。

このへんの負担とかも考えつつ、柔軟に、自分のペースで楽しめる範囲で楽しむのがベストかなあと思う。

 

■その他

●チェロのケースっぽいものを背負っている人を見ると「おっ」と思う

仲間意識を勝手に感じる。

 

●すれ違う人達の中に、実は楽器できる人いっぱいいるんだろうな~と想像する

こういう想像ができるのは世界広がった感がある。

 

●「今聞いてる曲チェロで弾いたらどんな風かな~」と想像したりする

たのしい遊び。

 

●生活そのものは(一見)劇的には変わらない

音楽自体はかねてから「なんかやってみたいなあ」と思っていた分だけ、期待値もでかかったのだが、「チェロを始める前」と「始めた後」で生活が劇的に変わった、という感じは、振り返ってみての実感としては正直ない。が、たぶんこれは楽器に限らずどんなことでもそうで、「始めてしまうと、始める前のことはわからなくなる」ということだと思う。

始めたてのころは劇的なものとして感じ取っていたはずの変化も、慣れてしまえばいつもの一日である。その証左として、チェロを始める前の土日、どういう一日を送っていたか、正直今よく思い出せない。つまるところこれはチェロが日常になった、ということで、これは喜ばしい変化と言っていいんではないかと思う。

(仮に「やめたい=日常からいったん離したい」と今後思ったとして、社会人だと「部活の引退」みたいな固定された期限がないのでたいへん、ともいえるかもしれんが)

 

今回はここまで~。次は「5年経って得た気づき」が書けるといいですね。では。

●●のおかげです

「感動の超大作」「全米が泣いた」など、無数にある使い古された誇大コピーの一つに、「これで人生が変わる」というものがある。私はこれを見るたびに、ちょっとした引っ掛かりを覚える。

 

まず、「人生ってそんな簡単に変わんなくね?」という疑問がある。自分の生き様をいきなり180度方向転換できる人も居ないわけではないとは思うが、「人生が変わる」商品の数はその数と比べてあまりにも多すぎる印象だ。ただこの疑問は、「人生が変わる」という表現を、「それのおかげで人生が一変する」というレベルにまで、重く見すぎているからかもしれない。

となると今度は、「じゃあ、どっからなら「人生が変わる」レベルなの?」という疑問がわく。たとえば、「近くのスーパーで肉が●円だったけど、もう2分歩いたスーパーではさらに●円安いことに気づいた」といった些末な出来事であっても、「人生が変わった」と言いたいのであれば別に言ってもいいのではないか、と思えてしまう。……と考えてみると、要するに、私の疑問は「人生が変わった」てそもそもどういうことなの? というところに帰結するっぽい。

 

私が「人生が変わる」系の表現にひっかかるのには、これまでの人生の中で、「あなたのおかげで今の私がある(=あなたのおかげで人生が変わりました)」と明確に表現したことがあるからだ。と書くと運命の出会い的な、超ロマンチックな話になりそうだが、相手はおっちゃんで、ありていにいってしまえばただの塾講師である。

 

私が通ったその塾では、受験合格後、先生に対して「あなたのおかげで~」を本文内にいれたお礼の手紙を書く、という客観的になかなかな風習があった。またその塾は、受験テクニックだけではなく、「これからの社会をどう担っていくべきか」的な人生訓を同時に伝えようとするような、なかなか個性的な場所であった。必然、そこに向け「あなたのおかげで変わりました」と書くと、そこには単に受からせてくれたお礼という以上に、「私の生き方も含めて変えてくれてありがとうございました/変えてくれた私でもって進んでいきます」という意味も含まれる空気があった。

私自身は、当時から冒頭に述べたような疑問も抱いていたし、冷静に考えるとこの空気ヤバいよねー、とも感じていたのだが、「でも、この塾のおかげで受かったのは事実だしなぁ」と思い「あなたのおかげ~」を書いた記憶がある。100%本心ではないけど、ある程度は本気でもあることを自覚したうえで、「演技」した、とかいうとそれっぽそう。

 

「あなたのおかげで変わりました」は、一見すると、過去と比べて変わった、今の自分を追認する言葉のように思える。だが、私の中ではどちらかというと、この言葉は「あなたのおかげで変わった、という演技をこれからも続けます」という、未来に向けた宣言の意味合いのほうが強い。

私が「これで人生が変わる」に引っかかるのは、つまるところ、「それって、こっちに演技を強要してない?」と思うからかもしれない。

 

ただ、商品コピーなんかも考える立場から考えると、「人生が変わる」みたいな表現を使いたい気持ちはわからんでもない。し、実際に私自身がそれに類するコピーを付けていることも多々ある。

私の感覚では、商品を世に送り出すのは、どこか演技に近しいところがある。同業者はどうか知らんが、少なくとも私は、嘘かもしれないとも思いつつ、でも「役に立つだろう、誰かの人生が変わるだろう」と思えないのであればやってられない気がする。そのようにして演技するのであればできれば本気で、安易に「人生が変わる」なんて表現には逃げずに、それぞれに見合った演技をしたいもんですね。(まあそれがむずいんだけどね)