寝楽起楽

ネタばれには配慮しない、感想/紹介ブログです。毎週1回更新 +α を目指したかった。

インプットの量と質

「普段関わりのない領域について情報を収集し、企画を立てる」という仕事の性質上、日がな一日今まで聞いたことのない記事やら本やらを眺めていることも多い。

自然、一日のインプットは超膨大な量になる。それらすべてを裁こうとすると、一つ一つについて吟味するというよりは、次から次へと自分の中を通り過ぎさせる、という姿勢のほうがデフォルトになりやすい。

 


こうした場合に課題になるのは、アウトプットである。私の仕事におけるアウトプットは、企画書、引いてはその到達点である書籍として生まれるが、そのためにはインプット量のみならず「質」に目を向ける必要がある。しかし、ここでいう質とは「私自身がどこまでその資料を理解し、どこまで深く考えたか」ということではない。

 


企画や書籍を作るのは、私のためではなく、読者であるあなたのためである。そして、あなたのために書くのも著者であって、私ではない。書籍プロジェクトにおいての私の役割は、「読者のための本をあなたに書いてほしい」と誰かにお願いする、つまり読者と著者を繋ぐことが中心だ。

さてこのとき、必要性だけの観点でいえば、その中に私自身の個人的な思想や考えが入る意味はまったくない。ゆえに、企画制作時にインプットする記事や書籍の内容、また最終的なアウトプットである書籍の中で述べられる事柄を私がまったく理解できなくとも、書籍を制作することは別に可能である。※

私が見極めるべきは「著者候補の質(=想定している読者対象に対して、その人の語れる物事が、良い資料になりうるかどうか)」であって、内容そのものではない。もし私が企画時点で内容を完全に理解できるのであれば、その書籍は私が書けばいいのであって、著者に頼む意義がない。

 


ただあくまで「個人的な思想が入る必要性はない」というだけであって、記事や書籍を次々に眺めている時に、仕事とは一切の関係なく、ごく私的な学びの思考が立ち上がることはしょっちゅうある。大抵の場合、それは次から次へと目の前に表示する情報の中に埋もれていくのだが、その断片が企画の中に入ることだって頻繁だ。

 


だが、それで消化できる物はごくわずかだ。大半は切れ切れの、半端な思考の萌芽のままに、私の中に沈殿していく。そして不思議なことに、時にそれらが私に、「形にしろ」と訴えかけてくることがある。そしてそれはまた、理由もなく行き場のない、焦燥感(もどかしさと言ったほうが適切?)を私の中に呼び起こす。

 


今、仕事の昼休みにスマホでこうしてちまちまと文章を打っているのは、まさに先ほど焦燥感を覚えての発散なのだが、しかし、こんな対処療法では騙せない日が、いつの日かやってくるのだろうか。

 


※「可能である」だけであって、「だから何も理解しなくていい」ということにはならないことは念のため付記しておく。