目立たない洋髪に結び、市楽の着物を堅気風につけ、小女一人連れて、憂鬱な顔をして店内を歩き廻る。恰幅のよい長身に両手をだらりと垂らし、投げ出していくような足取りで、一つところを何度も廻り返す。そうかと思うと、紙凧のようにすっとのして行って、思いがけないような遠い売り場に佇む。彼女は真昼の寂しさ以外、何も意識していない。
こうやって自分を真昼の寂しさに憩している、そのことさえも意識していない。
(「老妓抄」p8)
どんな視点で世界見てればこんな描写できるんですかね。
〇あらすじ
芸妓を引退した老女が或る男を飼う「老妓抄」
ある寿司屋の常連老紳士が語る思い出「鮨」
飯屋のおかみが唯一与えられたもの「家霊」
ビンタから始まらなかった関係「越年」
つながった老女と童女「蔦の門」
姫を契機に悟りを開く「鯉魚」
彼にとっての妻は死んだ「愚人とその妻」
料理に才能を持つ高飛車おじさん「食魔」
以上9編所収。
〇考察・感想
裏表紙では、「女性の性の歎き、没落する旧家の悲哀、生の呻きを追求した著者の円熟期作品」って書いてあるけど、あんまりそういう風には読めなかった。
文章一つ一つが分かりやすく綺麗に書かれているせいで、切迫したものを感じとることができなかったからだと思う。
誰だったかな、角田光代さんかな?どろどろしたものに浮いた、上澄みの部分を掬えるタイプの作家が居るって話をしてて、この岡本かの子さんの作品でいえば、上の説明書いた人はそのどろどろにつながる部分を読み解くことができて、自分はできなかったってことなんだろう。
そんな浅い読みでも楽しく読めちゃうぐらい文章が素晴らしかった。
「老妓抄」の締めの歌、
年々にわが悲しみは深くして
いよいよ華やぐいのちなりけり
これも秀逸。作品全体のテーマなのかな?
あからさまに悲劇という話は一つもなく、むしろ全体としては幸福とさえ言えると思うんだけど、でも一つ一つには虚しさとか悲しさとかが伏流してて、それが却ってある種の鮮烈さを生み出している、ような気はする。
〇印象に残ったシーン
その子供には、実際、食事が苦痛だった。体内へ、色、香、味のある塊を入れると、何か身が穢れるような気がした。空気のような食べ物はないかと思う。腹が減ると餓えは充分感じるのだが、うっかり食べる気はしなかった。床の間の冷たく透き通った水晶の置きものに、舌を当てたり、頬をつけたりした。
(「鮨」p57)
こんな純粋な少年存在していいの?いや、存在はしてないんだけど。
拒食症とかにかかってしまう人って、こんな風だったりするのだろうか。
私は身体を車体に揺られながら自分のような平凡に過ごした半生の中にも二十年ともなれば何かその中に、大まかに脈をうつものが気づかれるような気のするのを感じていた。それはたいして縁もない他人の脈ともどこかで触れ合いながら。私は作楽井とその息子の時代と、私の父と私たちと私たちの息子の時代のことを考えながら急ぐ心もなく桑名に向かっていた。主人は快げに居眠りをしている。少し見えだしたつむじの白髪が跳ねて光る。
(「東海道五十三次」 p100)
大まかに脈をうつもの、自分も欲しい。
以上です。