寝楽起楽

ネタばれには配慮しない、感想/紹介ブログです。毎週1回更新 +α を目指したかった。

なしくずしの冒険:『オズの魔法使い』ライマン・フランク・ホーム 柴田元幸訳 2013年

 「マンチキンの国へようこそ、この上なく高貴なる魔法使いさま。東の国の悪い魔女を退治してくださり、民を囚われの身から解きはなってくださったこと、わたくしどもみな心から感謝しております」

 この演説に、ドロシーは茫然としてしまった。あたしのことを魔法使いだとか、東の国の悪い魔女を退治しただとか、この女の人いったい何を言ってるんだろう?あたしは何も知らない、悪意もない、大竜巻に何マイルも運ばれてきただけの子どもなのに。

(本著p17)

 

 異世界に転生してちやほやされる、その原型をここに見た。

 

 

 

 

〇あらすじ

 竜巻で知らない国に飛んじゃったドロシーがかかしとブリキの木こりとライオンをお供に故郷に帰るのをめざす

 

〇考察・感想

 「はじめに」のとこで、筆者が小説を書いた意図とか、〇〇に捧ぐ、みたいなことを書いてる本ってあるじゃないですか。

 あそこの部分、今まではさっと流し読みしてそれで終わらせてたんだけど、今作に限ってはその終わりで一気に心をもってかれました。こちらです。

 

 『オズの魔法使い』は、今日の子どもたちにひたすらたのしんでもらうために書きました。ふしぎやよろこびはいままでどおりあって、つらい気持ちや悪夢は排除された、現代のおとぎばなしをこの本は目指しているのです。

 

 一九〇〇年四月 シカゴにて

                L・フランク・ホーム

 

 1900年に生きてた人が、当時の子供たちに宛てて書いたお話、っていう事実それそのものが既にファンタジーだなと思いませんか?

 オズを夢中になって読んでた子供は多分もう亡くなってる。でもその物語自体はこうして残ってる。それがほんと凄いなあって。

 

1900年にとっては1900年は現代だったんだ、とか。当たり前なんだけどね。不思議ですよね。

 

 内容は、訳者あとがきがもう完璧に言い表してくれてるんでそっち読んでくれればいいんですが、設定の不徹底さと、なんとかなるよね、っていう楽観性が大きな魅力でした。

 

 たとえばお供の一人のかかし君は頭にわらが詰まっててあんまりものを考えられない、だから賢くなるために脳みそが欲しいってんで大魔法使いオズに願いを叶えてもらいにいきます。

 

 そのはずなのに、実際ドロシー一行がピンチに陥ったときに、真っ先に策を出すのはかかしなんですよね。

 

 また同時に、心臓がないせいで感情がないはずの木こり君は「自分に心がないことを承知していたから、何に対しても残酷だったり不親切だったりしないよう、すごく気を付けていた」。いやそれは心と呼ぶんじゃないすかね、ていう。

 

 こういう不思議さ、無稽さが読者を(子どもを)ひきつけてやまない魅力なのだろうと思います。

設定考証なんて場合によってはぶん投げてしまったほうが良いこともあるんですね。

 

 あと、実際お供くんたちは旅を通して何も変わっていないのに、旅の終わりには一国の王になったり大出世してるのもおもろい。

 冒険を通じて成長した!とかじゃないんですよね。なんか気が付いたら偉くなってる。凄い。

 

〇印象に残ったシーン

(瀬戸物の国で、うっかりものを壊して怯えられた後)

  「悪いけど、しかたないわ」ドロシーは言った。「牛の足一本と、協会一軒だけですんで、まあよかったわよね。みんなすごくもろいんだもの!」

 「ほんとにそうだよねえ」かかしが言った。「自分がわらでできていて、簡単にはこわれないことをありがたく思うよ。かかしでいるより悪いことが、世の中には一杯あるんだねえ」

(p178)

 

かかしのキャラ好き。

 

以上

 

受け取ったもの:『メッセージ』(原題:arrival) ドゥニ・ヴィルヌーブ監督 テッドチャン原作(字幕版公開中)

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友人が薦めてたので観て来ました。良かったよ。

 

○あらすじ

 突如飛来した宇宙人、その目的を探るために言語学者が頑張る

 

 ※ネタバレには配慮せずにいくので、今後見に行く可能性があるなら覚悟して読んでください。

人類vs宇宙人の骨肉の争い、みたいな話では全くないです。そういうのを求めてる人は別のをどうぞ。

この音楽↓聞いて、なんかすげえ、てなるタイプなら映画館へGO。もうすぐ上映終了です。

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○考察・感想

 凄く丹念に工夫が施されてる映画。

 

 一番目立った特長は画面内のあちこちに焦点を合わせていくカメラの手法かな。

 視聴している側がついていくのはやや大変だけど、同時的に世界を見るようになった、という設定を上手く表現してたと思う。

 

 以下、映画を見て出てきた疑問点と、ぐぐってへえって思ったことをつらつら書いて来ます。

 

 ・イアン(物理学者)がルイーズ(言語学者)のようにはなれないことが示唆される描写

 ルイーズはヘプタポッドとの交流そのものに強い関心を示す。

 人間とヘプタポッドとを隔てるガラスに真っ先に触れるのはルイーズだし、素顔をさらすのも彼女が一番最初。

 言語学者だから、という以上に、宇宙人のクリティカルな部分に辿り着けたのはそういう理由でしょう。

 

 一方イアンのほうですが、一番最初に宇宙船に乗り込んでいくシーンで、彼はその外形に手を触れて笑みを浮かべてるんですね。

 宇宙人と出会うこと、その他諸々に恐怖を覚えているルイーズとは対照的です。

 彼が理解出来るのは宇宙人の持つテクノロジーであり、交流そのものはルイーズの手を借りなければ出来ない、そのことが明示されているかと思います。

 

 ガラスで隔てられている、というのは最後のルイーズがシャン上将に電話をかけるシーンでも効果的に使われてた。

 無菌室に最終的に立てこもるのはルイーズとイアンの二人。イアンはルイーズが何をしているかは分からないけど、彼女の言うとおりにとりあえず動く。その後の二人の関係性を象徴するシーン。

 

 

 ・C4爆破事件の必要性

  あのC4での爆破の後、明らかにルイーズの同時認識能力が向上していること、またその後招き入れられた空間にはガラスが無かった(よね?あれ、ちょっと自信なくなってきた)ことを考えると、あの爆弾はルイーズとヘプタポッドたちとの隔たりを物理的に(と同時に精神的に)ぶっ壊す役割があった。

 

 あの爆弾のせいでアボットは「死の過程」にいくことになるわけだが、これが「死にかけている」とかではなかったことに注意。

 まず前提として、ヘプタポッドたちは時間の概念がない。

 ということは、生や死も、我々の思っているそれとは遥かに異なる風に捉えていると考えられる。

 ヘプタポッドたちにとっては、生や死は全く重要ではないのかもしれない。ルイーズの最後の選択が、またそうであったことが思い起こされる。

 「あんな爆弾一つで高度な技術を持つ宇宙人が死ぬなよ」という茶々入れを見かけたが、これには上記が回答の一個になりえるのではないかと思う。

 

 ・最後の中国語、なんで字幕がなかった?/ポスターに隠されたメッセージとは

 

 

 日本版ポスターのみの遊びとして、このメッセージ、のセ部分のみフォントが明朝体となっていることが一時話題になっていた。

 気づいた人やべえ、と誰しもが思うだろうが、これはつまり、人によって見えるものが異なる、ということを端的に表している事象であり、それはそのまま映画のテーマにも繋がってくる話だと思う。 

 

 中国語に字幕がなかったのも同じ理由。分かる人にだけ分かるようにあえて作っているのだろう。

 

 ただあそこがやや不満なのは、それまではずっとルイーズの視点に寄り添って視聴できるのに、あそこで突然自分ら中国語分からん人は突き放されちゃうこと。

 言語認知の描写については、突き詰めるともうちょい面白いことが出来そうだったかもなあ、という気がしなくも。

 本編は英語で進んでたけど、あえてずぅっとロシア語やら日本語やら垂れ流すシーンを造りまくって、終盤だけそれらにもちゃんと字幕が表示されるようになる、とか。

 

 ・何でメッセージにタイトル変更しちゃったの?

 これはなあ、中々難しいよなあ。

 arrivalって、到着って意味しか知らなかったんだけど、視聴後に調べたら口語で「新生児」ともいえるそうでうわーーーーーーーという感じ。

 日本語では到着と新生児同時に言い表せる単語ないからなあ。

 そりゃ到着のほうから連想してメッセージにするしかなかったかも。でもこの辺も言語認知ですよね。おもしろ。

 

 こんなとこですかね。

 しかし音楽が素晴らしかったな~~冒頭に出した「Heptapod B」マジ好き。

 あと文字な。綺麗だったな。

 

 以上です。

主役になりたい僕らのマニュアル:『人間・この劇的なるもの』 福田恆存 新潮文庫 1960年

 自己が他人を、いや自分自身をも、明確に見るための演戯と、私はいった。が、見るというのは、たんなる認識でも観察でもなく、見たものを同時に味わうということにほかならぬ。すでに劇の進行について語ったように、意識は先走りしてはならぬのだ。役者は劇の幕切れまで自分のものにしていながら、その過程の瞬間瞬間については、その都度未知の世界に面していなければならぬ。先走りする意識は未来をも見通す。歴史を諦観し観照する。

(本著p34より)

 

 なんの根拠もなく、俺がこう思ってるから、というのみで「ほかならぬ」と断言する姿勢、良い。

 

人間・この劇的なるもの (新潮文庫)

人間・この劇的なるもの (新潮文庫)

 

 

 

 

〇内容要約

 自然本来のままに生きる、ということはありえない。人間は演戯する生き物だ。

また同時に人間は、自らの人生の中にドラマの1シーンのような、ある決定的な瞬間を求めたがる。しかし現実はドラマではなく、だからこそ倦む人がいる。

では果たして、人間は、どのように生きていけば良いのだろうか?

 

 

〇 考察・感想

 文章がきれい。んで薄いのでわりかし勢いでさくっと読める。

 

ただ福田さんは劇にずっと携わってきたらしく、なんでシャークスピアの劇を参照しながらの解説が途中挟まり、いかんせん全くの無知のためその辺の部分はいまいちついてけてないとこもある。

 

あらすじに書いたとおり、人間は物まねをする生き物である、という前提からこの本は書かれている。

なんかどっかで、生まれたての赤ちゃんっていうのはすごく痛みに鈍感?で、怪我をしてもケロリとしてるんだけど、周りの大人が騒ぎ立て「痛そ~」って顔しかめながら手当してくれるのを見て、これが騒ぐようなものだと気づいて泣くようになる、という話を聞いたことがある。

嘘かほんとかは知らんが、まあとにかくそういう基礎がある。

 

「個性のままに生きる」だとか、「自然に生きる」とかいう言説も、実際にはそれらの皮をかぶった演戯に過ぎない、という風に福田さんは書く。つまり人間は演戯から逃れ得ない。では、どのようにそれと付き合えばよいのか。

 

 自分が演戯している、ということについて、無自覚的でのみあってはならない。演戯というのは偶然の連続でしかない自分の人生の中に、ある筋書きにそった必然性を見出そうとするものだが、その効果を理解しないままでいれば、それは他者を自らの物語の中の脇役に貶め、場面を効果的に演出することを強要する。

 

 また同時に、演戯しているということについて自覚的であってもならない。自分が表現しようとしていることをどこまでも追い求めようとすれば、最終的には「作品が終わるように、かれは自己の人生を、みずからの意思のもとに閉じなければならない」。

そこから免れようとしても、自分の人生の意図を阻む最大のものは巨大な社会であり、個人がそれにかなうはずもない。

 

 てなった後、シェークスピアの劇のターンがずっとあって、ここで人生における終わり(=死)について説明してるんですけど、このへんよくわかんないんで省略します。

 

 人生の筋書き、劇の脚本というのはつまり、神的な存在が定めた「全体」という風に言い換えることができる。

 

 我々はその中における部分でしかないので、全体の目を持ちたい、という願望はあるにせよ、実際にそれを試みるべきではない。巨大な全体の中ではちっぽけな部分は消滅するより他ないから。

 

 しかし同時に部分であることを許諾してしまえば、そこに生まれるのは機械のように黙々と浪費される人生。

 

 よって必要なのは、自分が演戯していることに対して(演劇の中で役を演じる役者のように)自覚的であり/かつ無自覚であること、と同時に、あくまでも部分としての我々を出発点としながら、全体との合一を試みること。

 

で、この全体との合一ってとこで、また死が問題になって、生と死は表裏一体のものでーとかなんとかかんとかな話になって終わります。

 

死と生は元来一つであった。その全体の中にいるという自覚の中にこそ、部分としての我々の道がある。

 

 生はかならず死によってのみ正当化される。個人は、全体を、それが自己を滅ぼすものであるがゆえに認めなければならない。それが劇というものだ。そして、それが、人間の生きかたなのである。人間はつねにそういうふうに生きてきたし、今後もそういうふうに生き続けるであろう。

(本著p160)

 

大事なのは、「ひとつの必然を生きようとする激しい意思」であり、また同時に「ひとつの必然のうちで死のうとする激しい意思」でもあるわけですね。

 

 

 多分こんな話なのかな?と思いながら読んだんだけどどうなんでしょうね。

やはしなんとなくしか解ってないと、なんとなく知ったかぶった文章しか書けないなあ。

度し難いのは、二人の人が解説書いてるんだけど、佐伯彰一さんのほうは「あーなるほどなるほど」と思って読んで、坪内祐三さんのほうのは「は?そんな話じゃないでしょ。わかってねーなー」ってこきおろしてる自分が居ることですね。

まずその自分もよくわかってないじゃん、ていう。

 

 

死のうとしなきゃいけない、てとこで、「なれなれしいひとまつげもやすちゃん」という方のこれ↓を思い出しました。

mayugemoyasu - 死にたいのはなし

この人の文章もめちゃ良いのでお暇な人はぜひ。

 

 

 原典に当たるのが一番手っ取り早いと思うんで、ちょっとでも中身に興味持ったら読んでみてください。

なんか凄いことは書いてありそうな本だったんで、自分も多分またいつか読み返します。

 

〇印象に残ったとこ

私たちは労働はや仕がいやなのである。約束や義務によって縛られたくないのである。秩序や規則が煩わしい。伝統や過去が気に食わない。家族や他人は自分の行動を掣肘する敵としか思われぬ。

(p88)

 

リズム感〇。声に出して読みたい日本語。

 

沈んだ意識の向こう:『水域(上)(下)』 漆原友紀 講談社 2011年

今回は漫画。

 

 

水域 上・下 全2巻セット(アフタヌーンKC)(コミック)

水域 上・下 全2巻セット(アフタヌーンKC)(コミック)

 

 

○あらすじ

 酷暑の夏、少女はマラソンの途中で意識を失い、その最中に村を幻視する。

現実とは異なり雨が降り続くそこに暮らすのは、老人と少年。彼らは一体何者か。村は一体どこなのか。

 

○考察・感想

 漆原さんは『蟲師』の人で、つまりはこの『水域』も読む前から神作品であることは明らかであり、めっちゃ安心して楽しんだ。実際良かった。

 

 意識が「落ちる」とか「沈む」とかいう表現があるように、水と心の深層というのは確かに相性が良くて、そこまでは発想としてはあるけど、じゃあその水の向こう側には何があるの?というところを考えた作品。発想花丸。

 

 少女千波があちら側に行ったのを皮切りにして、せきとめられていた村の記憶が関係者からあふれ出てくる。ダムに沈むのを防げなかった故郷、其処に今も埋もれる行方不明の少年、それら自体はとっても苦いもの。でも、水自体はたそこに悠然としてあるだけ、というような一種のつきぬけが終盤一気に示され(と僕は感じた)、そこに蟲師味を感じた。

 

 表紙だけ見るとなんだか『ぼくらの』とかあっち系の雰囲気で、ちょっと嫌な話なんじゃないの?と敬遠されちゃうかもだけど、実際は全然そんなことないですよ。

もうすぐ夏だし。もう暑いし。空想の雨に打たれてしんみりしませんか。