寝楽起楽

ネタばれには配慮しない、感想/紹介ブログです。毎週1回更新 +α を目指したかった。

コロナかかった記

流行して早4年、感染経験がないために対岸の火事感もあったコロナだが、先々週についに感染した。

てことで、いまさら誰にも需要はないだろうが、どんな症状が出たか、メモを置いておく。なお、長文読むのがめんどい人向けにまとめると
 
・基本的な症状は4日で治った(一部除く)
・「ただの風邪」という向きもあるがただの風邪よりは辛かった(てか、そもそもただの風邪もかかりたくないけど)
 
という所感だった。
 
■症状1.熱と関節痛(主に1日目〜2日目)
 
まずしんどかったのはこれ。特に発症初日の夜、熱が急激に上がって40度の熱と関節痛とのコラボはマジで眠れなくてつらかった。

初の体験として、「熱で意識が朦朧とする」というのがあんなにつらいとは思わなかった。関節痛に呻くさなか、なぜかずっと「システム」という単語だけがずっと頭を占拠していたのだが、それについて一切の思考が働かなくてヤバかった。ここでいう「システム」というのは「免疫システム」など特定のものを指す何かではなはなく、ただの4文字の羅列としての「システム」であって、それ自体には何も指し示さず、何の意味もないものとしてずっと頭に鎮座していた。

「システムとは●●である」などと思考が展開されていくのならまだ建設的といえるのだが、「システムとは……(絶句)」という感じで、1mmたりとも前に進む感じがなかったのが大変きつかった。前に進まないとマジで時間感覚が狂うというか、世の中から時間というものが消えて、関節痛とシステムに苦しめられている「今」しかない地獄に閉じ込められた感があった。(どうやって脱したのかは覚えていない)

 

■症状2.喉の痛み(主に2日目~3日目)

 

コロナとしては珍しいことに(?)咳はいっさいでなかったのだが、2日目夜の喉の痛みがきつすぎた。なんか飲み込むたびに金属針飲まされてるみたいだった。意識がちゃんとある分、上の関節痛よりもつらかったかもしんない。

喉はだいぶやられてしまった感があり、他の症状が治まった後もずっと具合悪く、しばらくは声がまともに出ずにつらかった。なお、今もまだ若干鼻声になりがちである。

 

■症状3.食欲の減退

 

私は元来風邪をひいても食欲などあんまり衰えない、かなり健康的な(?)身体をしているのだが、今回は食欲不振が出て我ながらびっくりした。

喉が痛いのもあったが、症状がある程度収まった後も「おなかは空いてるけど食べると吐くから食えない」「おなか空いてるけど動く気が起きない」などといった状態が続いて、自分史的に物珍しい出来事で興味深かった。腹の調子は今でも(発症から10日以上経った後でも)本調子ではない感じがしているのだが、本調子ではないとか言いながら家系ラーメンたいらげたりしているので、気のせいのような気もする。

 

■症状4.意欲の減退(?)

 

食欲に限らず、何かしようという意思がいったん全部ゼロになったタイミングがあった。

時間つぶしに何かしようにも、ゲームも本もアニメもなんも見る気がせず、ただ何の物音もしない部屋の虚空を見つめる、みたいな状態が1日弱ほど続いて、これブレインフォグとかいうやつかな、これこのまま続いたら人生無理なんじゃねとか思っていた。

今は各種エンタメを楽しめるようになったので、どうやらすっかり治った……と思いたいのだが、図る指標がないので、完全に「元」通りになったかといわれるとなんとも言えない。こういう心配をせにゃならんのも普通の風邪とコロナとの違いだなぁと思う。

ただ、そもそもこの意欲減退がコロナ由来だったかどうかというのもなんともいえず、ただ体調を急激に悪くしすぎて、思考が一気にネガティブに依っただけかもしれない。よくわからん。

 

とはいえ(おそらくは)ほぼ完治したと言ってよく、あとはへんな後遺症が残らないことを祈るばかりである。しかし、やっぱかかると辛いもんですね。

 

では。

 

最後の世代―終戦の日に寄せて

焼夷弾で街が焼けていく景色がきれいだった」

防空壕を探検するのは面白かった」

「下校の際に起きた空襲の後、焼死体をまたぎながら家に帰った」

「いずれ自分も学徒動員されて、国のために死ぬのだろうと思っていた」

 

今年で齢92だか93だかになろうという祖父が、ここ数年、戦争の記憶や記録をメールで親戚に送ってくるようになった。

当人は「ボケ防止」などと言っているが、「死ぬ前に語っておきたい」といった気持ちも、当然そこにはあるだろう。実際、90~100の大台にのっている方は、いまやそう多くはないだろうと思う。

......ということはひょっとして、今の私の世代あたりはそう遠くない未来、「WWⅡの記憶を当事者から聞けた最後らへんの人たち」になるのではないだろうか。ということに気づいたので、今回書きたいのはそんな話だ。

 

兄弟が戦地で行方不明になり、焼け跡の中を帰ってみれば、隣家が一面消え失せている。

祖父はこういうようなことを、「行きつけの喫茶店ができた」といった話題と何一つ変わらぬ快活な口調で、普通の話題かのように話す。

ごく自然にこうしたことが起こる日常の中で生き残った祖父は、私の母(祖父の娘)曰く、「戦後の自分の人生は、全部おまけだと思っている節がある」そうだ。戦中の風景も、そのような思考様式も、私にはただただ及びがつかない。

 

ほんの二週間ほど前、映画『Oppenheimer』『Barbie』の二つをかけあわせた『Barbenheimer』という海外のネットミームが、悪い意味で話題になった。

 

『バービー』『オッペンハイマー』旋風が北米を席巻 “Barbenheimer”として社会現象に(リアルサウンド) - Yahoo!ニュース

『バービー』米公式に対するワーナージャパンの抗議、海外メディアでも報道 ─ コメント欄は激論に | THE RIVER

 

そんな中で私が一番印象に残ったのは、「被爆三世」の立場から原爆について書き綴った、この記事である。

 

anond.hatelabo.jp

 

「もう78年も前のこと」だし「当事者はほとんど残っていない」、でもだからといってそれを風化させていいことにならない。そして、それを風化させないための語りは、その悲しみや怒りを喧伝するためではなく、二度と同じことを起こさないためになされるべきであると思う。

私たちは今後、「WWⅡの当事者と過ごした最後らへんの世代」になっていくだろう。そこで、私たちが生きる今後の中で、「WWⅢを経験する世代」にならず・生み出さずにいられれば、そのときはじめて胸を張れるんでねーか。

とかいいつつ、世界的にはすでに色々と怪しいのが、なんとも悲しいことでもあるけど。

現実から逃げるな、の二側面

「現実から逃げるな」的な言葉を冗談混じりに投げかけられることが多い。そこで反省して自分の人生を見つめ直していたのだが、この言葉には実は

 

•主体性を持って自分の人生に責任持って生きろよ

•人間社会(ないし所属組織)における責任を果たせ」

 

の、2種類の意味があるのでは? という仮説が立ったので、覚え書き。唐突に終わります。

 

まずは前者から。

 

◾️自分の人生に責任を持て! の話

 

これはさらに細分化できて、「今の行動が未来の私の結果になることに自覚的であれ」と、「今の境遇は過去から作られていることに対して嘆くな」のに2方向があると思う。

 

んで、このどちらの文脈で言葉を投げられたとしても、私は「そりゃ当たり前だわな」としか思わん。つまり、この文脈についていえば、私は私の過去の行動+環境要因の結果生じている、私の今については納得している。

ということは、帰納経験的に、未来の私も、私が今どんな行動を取るとしても、その結果によってできあがる自己に納得すると言える。

ここで、「納得」という言葉を使ってるのが私的大事なポイントで、どうやら私の中で「納得」と「満足」は別物らしい。

「満足がいっているかどうか」で自分の今を考えると、「そこそこ満足(妥協)している」という表現がもっとも適当になりそう。なので、「自分の人生に責任もてよ」は、その亜種の「もっと満足いく人生を送れよ」と言われるほうが、私には刺さりそう。(が、「真に満足いくように」となると、私は仕事辞めて夢を追う、とかやりかねない部分はある)

 

また、「自分の人生に責任を持っていない」もいう批判も遠からずの面はある。というのも私は、「過去の私も今の私も、私ではあるけど同時に他人だよね=未来の私が今の私の行動の結果苦しもうとも、シラネ」という思想の持ち主でもあるからだ。

なので、この意味では「人生に責任持て」も批判として適当。(でもこの投げやりさは言われてもたぶん、治らん)

 

◾️人間社会(組織)における責任を果たせ

 

これは「人間存在としての責任」から、「所属している会社でのノルマ」まで、文脈の幅が広い。で、「現実から逃げるな」と言われたとき、私がまず真っ先に連想し落ち込むのは、どうやら「人間存在としての責任を果たせ」のほうっぽい。

先ほどの「納得」という話とも関わるのだが、なぜ私が私の人生に納得できるかといえばおそらく、「理不尽を押し付けられた経験がない」からだと思う。これは私が理不尽から逃げるのがうまいのではなく、ただただ、周りの方々や環境に恵まれている、としか言いようがない。

 

ただいっぽうで、世の中には理不尽な境遇にいる人がめちゃめちゃたくさん居る。で、その理不尽さを是正しようとしている人も少ないながらいる。が、たまに、なにがどうしてそうなってしまうのか、むしろ理不尽を促進しようとする動き、も一方としてある。

私がこの中で一番罪悪感があるのは、「理不尽を促進する」を止められない、にありそう。理不尽を促進することは、納得できない人を増やすという意味で、人間世界を負にいかせる活動であって、しかし私はそれを指を咥えて見てるだけじゃん、ていう。

 

この罪悪感を、私は書籍編集という稼業に就いたことで昇華していそうである。

ぶっちゃけ今、著者の方々が書籍を書いて得られる直接的なメリット(印税)なんて、ほとんどの場合大したことない。にもかかわらず、この出版不況期に本を書いていただけるのは、心のどこかに「世界をもっとよりよくしたい」という気持ちもあるんだろう、という勝手な想像がある。

んで、私の仕事は、広くいえばその活動を支援することでもある。そして、仕事をする原動力の一つに、「これによって世界が少しでもよくなったらいい」という、祈りめいた感情は間違いなくある。だがこれはすごく抽象的な観念であって、「そんなん欺瞞だろ」と言われたら黙るほかないな。

(後、同じマスコミでも、下世話系のとこに行ったら急激に病むかもな、これ)

 

 

では、人間存在についての責任ではなく、所属組織における責任を果たせよ、て文脈ではどうか? これはまったく理不尽でもなんでもない糾弾だし、実際私は責任を果たしていないので、これは正味返す言葉もなし。

どころか、「俺みたいなやつでも居られる場所でいてくれ」という甘えがすごくあり、これはまったくもって「現実から逃げている」状態だな。

 

整理がついたので、終わります。

 

惰性でマスクを着けている

近頃外を歩いていて、マスクを外している人を頻繁に見かけるようになった。着けている:外しているは体感では1:1、ひょっとしたら外している人のほうが多いかもしれない。特段と暑い今日この頃であるし、5類に移行もしたことだし、「まぁ、そろそろいいだろ」という気分になるのは別段不思議なことではない。

とはいえ、コロナそのものの脅威が収まったわけではなく、「第9波だ」と言われたり、かと思えば「国内旅行がコロナ流行前の水準に戻った」と言われたりしている今日この頃、私はマスクを着けている。

 

ただ、私がコロナに対しことさらに敏感かというと、まったくそんなことはない。周囲に人が居ない状況であればマスクを外すことも頻繁で、店先に置かれているアルコール消毒も、たびたびスルーしてしまう。

ワクチンも、効果が半減すると言われた半年はもう過ぎてしまっているが、まだ打ちに行けていない(こう書き連ねるとマジで良くねえな。反省)。

 

なのになぜマスクだけは着けているかといえば、これはもう「惰性」というのが相応しいだろう。

「マスクは熱がこもる、皮膚がかぶれる、顔が見えない、思考が散漫になるから嫌」などなど、一般にマスクが嫌いな理由は色々とあるが、幸いなことに(?)私はこのいずれにも当てはまらなかった。ゆえに、マスクを着けることが半義務化していた時期にも別段違和感なくマスクを着けることができた。

そして「よくわかんないけど、そろそろいいんじゃないすかね」というぬるい空気が流れ始めているように見える今現在は、どちらかというと、マスクを着けないことのほうになんとなく違和感を覚えるようになっている。

 

コロナのことを考えると、「こんなもんが流行するなんて、出てくる前は想像もつかんかったよなぁ」という妙な感慨を覚える。「未来は常に予測不可能なものだよ」というのは、思い悩む少年少女への励ましなどで使われる常套句だけれども、こんな形で実感してもうれしくもなんともない。

(たぶん)世界中の人々が「マスク」なんつうたかが一アイテムのことを考えた、というのも、なんだか変な話である。

 

こんなことをつらつら書いているのは、マスクを題材にしたあるWeb漫画を最近読んだからである。「読解アヘン」というサイトに掲載された「くれない夕日のブラインド」という短編漫画だ。赤面しがちな自分を厭って、常時マスクを着けている少女が主人公で、2014年、つまり、コロナ前に描かれたものである。

 

「読解アヘン」は「堀さんと宮村くん」などで有名なHEROさんが運営しているサイトで、私が中高生のころに友達間で流行っていた。この前会話の流れでふと思い出した折にサイトに飛び、「新作連載されてんじゃん!!! うおおおおお」というノリで、一作一作読み直していたのだが、その中の一つとして本作はあった。

 

「今の時代だったら、この子も生きやすいだろうなー」というのが、一読して出てきた感想だった。ストーリー展開も、コロナが念頭にある現在では成立しにくい。

作者もまさかマスクを物語上の道具として使ったことで時代性を帯びるとは思いもよらなかったはずだが、今の中高生が読んでも、いまいち飲み込みにくいだろう。……とこんなことを思いながら、こんな感想が出てくること自体に、我ながら少し驚いてしまった。

 

今の私たちは多かれ少なかれ、コロナを前提として生きている。「国内旅行が感染拡大前の水準に戻った!」「もうそろそろマスクを外してコロナ前の生活に戻ろうよ」などといったところで、コロナが流行した(している)事実そのものが無かったことになるわけではない。これはあらためて言うまでもないほどのことではあるけれども、私たちは(と言うとまずければ、私は)現状に慣れてしまう生き物で、「昔はそうではなかったこと」を忘れていく。が、今回の漫画のように、時代性を帯びたものたちが、私を一瞬、過去に連れ戻すことはこれからも起きるのだろう。そして、たとえ作者がそれを意図していなかったとしても、それが起きること自体は、私にとってなんだか重要なことのように思える……。

 

とか考えてたら、とりあえず2023年7月7日の私の所感を残しておきたくなったので、ばーっと書いているしだいである。「なんかいいんじゃね」という空気の中、私は惰性でなんとなく、いまだにマスクを着けている。