無音のような耳であっても、いつかどこかで新しい音に破られる。私にその日がくるのかわからない。でもそれは楽しいことだと、インタビューの帰り道では心が弾む。
あれからだいぶ時間がたった。新しい音楽はまだこない。それでもインタビューの帰り道、女の子たちの声は音楽のようなものだと私は思う。だからいまやっぱり私は、新しい音楽を聞いている。
悲しみのようなものはたぶん、生きているかぎり消えない。それでもだいぶ小さな傷となって私になじみ、私はひとの言葉を聞くことを仕事にした。
(本書「おいしいごはん」、p28-29)
「音楽のよう」ではあっても、まだ無音の耳が破られていないのは、女の子たちの声もまた、悲しみがにじんでいるからでしょうか。。
●内容
未成年少女の支援/調査(現在は若くして子供を産んだ母親たちへの聞き取り)をおこなっている、沖縄在住の社会学者のエッセイ。
●感想
聞き取り調査でわかる人々の実態と、沖縄での家族との暮らしが、静かな筆致で語られていきます。元気に育っていく娘さんの描写が癒やし要素ですが、基本的には、とても悲しみに満ちた文章だと感じました(家族との日常の中にも時折、沖縄特有の問題が陰を落とします)。
著者はさまざまに思いを巡らせながら、聞こえていない声、聴きとれていなかった声に耳を澄ませていくのですが、同時にそのものの前で立ちすくんでいるようにも感じました。その複雑なものを、静かに差し出してくる文体は稀有に思います……そして、その控えめな感じに載せられて読んでいたぶん、最後の3行には、「不意打ち気味に」身体の芯に重いボディーブローを食らった感じでした。
語られてきたことを一気に卑近に引き寄せられ、本当に凄い文だと思います。私は沖縄からみて「本土」の人間で、たしかに、本書で語られる物事は他人事のように読んでいたのだな、ということを自覚しました(じゃなきゃ、「不意打ち」とは感じずに読んだでしょうし)。
この3行はまた、今まで見聞きしていた物事を、すごく表層的なエンタメとして空費してきたんではないか、と自分を内省させるきっかけにもなりました。
社会問題に対する責任、ということを読了後考えていて、
「世の中にさまざまに問題があるのは、私たち大人がそういう風に、世の中を作ってしまったせいだ」
と、まだ私が未成年だった時分に、身近な大人たちがふとした時に言ってくれたことがあったな、と思い出しました。
末端とはいえ社会の成員として働き始めた以上、私もまた、(本書で挙げられていることに限らず)責任を引き受けるべき一人になったのだと思います。
少なくとも、私が何かをした結果、そして(認識は難しく、また責任を受け入れるのも覚悟がいることですが)何もしなかった結果が、微細でも社会に反映されていく、ということは事実として受け入れなければなりません。
そのうえで何をするのか、何をしないのか、は皆目見当もつかないのですが。。とりあえず、「ここにいい本があるよ」とは、書いておきたいなと思ったしだいです。
では。