寝楽起楽

ネタばれには配慮しない、感想/紹介ブログです。毎週1回更新 +α を目指したかった。

8/13のチラシの裏

■■熱意のない文章に価値はないのか

 

 数カ月前、さる文章過激派の知人が混じっていた会話の中で、以下のような趣旨の発言が飛び出しました。

 

 「伝えたいことがないならネットに公表すんなボケナス」

 

 さすがにもうちょい語彙は綺麗でしたが、

 さいわい私に向けての発話ではなかったのですが、とりとめもなく文章を書きがちな自分のど真ん中に突き刺さる発言で、結構折に触れて思い出すんですよね。

 

 何が引っかかってるのかを整理したいとずっと考えていたところ、お盆休みが降ってきたので、これを機に俺得としてまとめたいなあと思い、キーボードを叩いてみてます。

(半年以上平気でブログ更新しないでいたり、PV数もほぼない立場で考えることかお前何様だよ、という当然の疑問は置いて読んでもらえると助かります……)

 

■「伝える、公表する」の掘り下げ

 

 「伝える」という行為には、「与える人」と同時に「与えられる人」が当然必要になりますね。文章でいえば、書いた人とそれを読む人。

 んで知人的には、「ネットに上げている公表物 = 誰かに見せることを前提とするもの」であらなければならん、という思想がどうやらあるらしい。

 で、これに対して、個人的に困ると思うポイントが以下2つ。

 

●(書く側として)伝えたいことないものあげられないのは息苦しい

 

 「俺得(自分しか得しないよ)」「チラシの裏(本来チラシの裏にでも書くべき、役に立たん情報ですよ)」とか予防線を本記事でも貼ってるわけですが、私の書き方として、着地点不明なままに文章書いてることが多いんすよね。

 「伝えたいことがないなら書くな」には、「伝えたいことを明確にしてから書け」が暗に含意されている気がしていて、とすると私はほんとに何にも書けなくなる感じがします。

 

 とはいえ知人の言っていることも理解できて、妥協点としては公表する場のスタンスを考慮してもらうことかなあ。書籍>商業ネット>個人ネット>SNSのつぶやき、とかで、1つの文章が内包する読者の存在、そこへ伝えることの重みって変わってくると思います。

 私に限っていうと、(本記事もそうだけど)自分の考えの整理としてもブログを書くことが多くて、何かを伝えることは比重としてはそんなに高くなかったりもする。

 ただ、誰かに読んでもらえる可能性がある、という保証なしにはそもそも文を書くことがないので、自分のメモ帳とかじゃなく、ブログに書くし、書いたらせっかくだからアップする、て感じですね。

 

 ただやっぱり、誰かに伝えようと思って書いてる人の文章って、自然に熱が宿っていて、巧拙とか関係なしに、読む側としてはごく単純にいいなあ、と思います。それらと比べた時、今この文を読んでいるあなたに対して私はすごく不誠実なことをしている。その自覚を持ったうえでブログを書け、という話であれば、頷く他ない。ごめんなさい。

 

●(読む側として)人のチラシの裏を読むのが好き

 

 伝えたいことが明確でない文章を私が書く、もう1つの理由はこれかもしれません。

 

 ひと昔前、ネットのない時代は人のメモを気軽に読めるなんてことなかったと思うんです。「発表の敷居がとてつもなく下がり、だれでも伝えたいことを世界に伝えられるようになった」ことはネットが起こした大きな変革としてよく語られますが、その陰に「発表されるはずのなかった、ネットがあるからアクセス可能になった」膨大な公表物があるはず。

 伝えることなんてこれっぽっちも考慮してない、ごく個人的な目的のために置かれているそれらに、整理されたものにない、人のそのままの面白さを感じることがある。

 読む側に、ものすごく暇がないとできない楽しみ方で、私の文章にこういう面白さを見出だす人が居るとも思いませんが、こういうものも載せられてこそのインターネットだし、これらがなくなるのも寂しい。

 

 

 以上をまとめると、こっちはこっちなりにネットの多様性を愛しつつ出してるつもりなので、多少はお目こぼししてくれませんか、てことになりますかね。過激派に言える意見じゃねーなこれ。自分の中での整理はついたしいいか。

 

 お盆中に、本の感想も書きたいと思いつつ。読書感想ブログなのに、1年と3カ月本の感想を書いていないことに気が付きました。やば。

 感想、書きはじめると楽しいんですが、継続的に感想書くことを意識しだすと「最初から書くことを念頭に置いて享受する」という状態になりがちで、それは自分の中では本末顛倒なんだよなあ。そういう意味でも「自分の整理のために書く」というスタンスでずっといるのがいいかもしれんですね。

 では。