夕方八時、ドアがまた開いて、あの小柄な娘がもう一度おっきいバスケットをふたつ腕にかかえて出てきます。娘は小さい家々のまわりにある、あちこちの野原に行きます。遠くに行く必要はありません。 野原ではすぐかがんで花をつみます。大きい花や小さい花、いろいろな花がバスケットにはいります。太陽がしずみかけてもまだ、明日のぶんをつんでいます。
バスケットがふたつともいっぱいになって仕事はおわります。太陽は沈み、クリスタは草に寝転がると両腕を頭の下で組んで空を見上げます。
クリスタの大好きな十五分間です。この働き者の小さな花売り娘がかわいそうだなんて思わないでください。このすばらしいひとやすみのあるかぎり、クリスタの毎日はけっしてけっして不幸ではありません。
(「花売り娘」,p50-51)
○あらすじ
『アンネの日記』の他に書かれた童話・エッセイの中から、30編を収録。童話14編、エッセイ16編。
○考察・感想
『アンネの日記』は中学生の時に読んでて一時トラウマになった記憶があったので、チャレンジする気持ちで読んだんだけど、これはそうはならなかった。
『日記』は、同年代の子が書いてるという部分がポイントで、だから当時はアンネを14,5歳のイメージのまんまイメージしてたんですよね。で、その子がこの日記を書いた後は理不尽に亡くなっている。当時の自分が具体的に何に対して恐怖を抱いたのかはもはや覚えていませんが、それがなんとなく怖かった。
ですが今回読んでみて気づいたのは、必ず最初にその文章が書かれた年月がかかれてて、「1943年」とか「1945年」とかそんなんなんですよね。『日記』と同時期なので当然なんですけど。
アンネって、今でも生きてたら88歳ぐらいみたいなんですが、平均寿命から考えると、それってもう老衰で亡くなってても全然おかしくない。
そう考えてみたとき、頭に浮かんだのはおばあちゃんになったアンネで、「少女」としてのアンネは、一回(僕の中では)完結したという感じがしました。
アウシュビッツの事件と一緒に取り上げられることが多い分、「被害者としての少女アンネ」としてしか『日記』も『童話』も受容できない、という人も多いだろうと思います。
なんですけど、たとえそこから生き延びられたとしても、もう亡くなってる可能性のほうが高い、という時代になって、まだずっと「被害者」のイコンとして表象され続ける、それはちょっと可哀想というか、一旦は「おつかれさまでした」と言ってあげてもバチはあたらないんじゃないかなと。
ただこれは確実に、事件を風化させていく方向(結論めいたものを出してしまうわけなので)に行ってしまうことでもあるので、あくまで「僕の中では」こうなりました、というだけに留めます。
んで、以下は年代ということをついでに考えてみたとき思ったこと。
僕今22歳なんですが、現在の平均寿命をそのまま適応させて考えてみると、多分ざっくりあと+60年以内、2078年には自分等の同世代の5割はもう亡くなってて、その中に自分が含まれてる可能性は充分ある。どんなに頑張っても、22世紀を迎えるというのはまあきつい(医療技術がすげえ発展とかしてたらわかりませんが)
て考えると、自分って「21世紀の人」なんですよね。一方調べて見ると、最後の1800年代生まれが昨年の4月にはもう亡くなっていて、てことは現世人類は20世紀生まれと21世紀生まれしかもう存在してない。
別にだからどうという話でもないんですけど。ただ歴史の本とか読んでて、例えば「13世紀はモンゴルの世紀」とかあったりするわけですが、多分そんな風に、「21世紀は○○の世紀」とか言われながら、そこに住んでいた一個人一個人には焦点が当たることなく、抽象的に扱われていくんだろうなーとか思いますよね。
あとこれから先出会うどの人も、確実に20世紀生まれか21世紀生まれのどっちかでしかない、というのもなんとなく不思議っちゃ不思議。当たり前なんですが。
まとまりなくなってきたので終わります。今回は以上です。