『ヒストリカルガイド・ロシア』を読むのはどうか、とふと思い立った。
初めてこれを手にしたのは大学生のときだ。と、はっきりいえるのがなぜかというと、大学図書館で借りて間もなく紛失、同じ本を手に入れて図書館に寄贈したのちにひょっこり出てきた、という思い出があるからだ(今手元にあるそれには、はっきりと母校の印が刻まれている)。
時たま「世界についてもっとくわしくなりたい」という衝動にかられたとき(私はこういう瞬間が不定期である)、ぱらぱらとめくったことはあったものの、最後まで読み通せたことはなかった。だがいまならば、はたしてどうだろうか。
……と思ってページを開き、口絵の「ウスベンスキー大聖堂」が目に飛び込んできた瞬間、私は侵攻以前と以後で、世界が変わってしまったと悟らざるを得なかった。
こういうことが起こる前は、私にとってこれはただの歴史ある聖堂の一つ、に過ぎなかった。だから何回か目にしたことはあったはずだけれども、この口絵が印象に残ることは正直なかった。
だが、いま見たこれは「あのロシアにある聖堂」として、存在感を持って立ち現れてきてしまった。これはうれしくない変化だと思う。興味がないままでいられる世の中のほうが、どれほどよかっただろうか。
もしここに硬い大きな壁があり、そこにぶつかって割れる卵があったとしたら、私は常に卵の側に立ちます。
この言葉に続けて、彼は「壁」をシステム、人を「卵」として「人はみな割れる卵であり、システムに魂をからめとられてはいけない」と、イスラエルに対して呼びかけた。
今回の侵略、さらにはシリアやミャンマー、日本の入管などなど、なにがしかの暴力や理不尽を見聞きするときに「私が揺るがされた」と感じるのは、おそらくは「システムが卵を割るさま」を、目の当たりにしてしまった、と感じるからだろう。
(とはいえ今回の場合、「プーチンはシステムに魂をからめとられた哀れな人」と慈悲をかけるべきなのかどうか、は判断がつかない。いまおそらく彼は世界でもっとも死を望まれている人であり、私はそう望む一人である)
いっぽうで私は、どこまでいってもあの侵攻の当事者ではないという事実でもって、他人事、だと思ってもいる。そのようにしてやりすごしていくのは、自分の精神を守るうえで、大事なことでもあるだろう。だが、そうしているうちに私の世界が崩壊する羽目にならないか、私は常に恐れてもいる。
ウクライナロシアの文字に指をとめ ひとうち1400万人
これはさっきふと思いついた短歌だ。u,k,r,a、とローマ字うちしていく、その一つ一つのなかに、だいたい1400万人ぐらいの人がいる、ようだ(違ったら申し訳ない)。
いま、「一うち」するごとに、何千万、何億人が脅かされるだろう、兵器の使用が仄めかされている。規模が大きすぎて現実感のない話だ。あるいは、いまこうしてキーを一打ちするごとに、どこかで生身の人間が一人撃たれているかもしれない。これはこれで現実感のなく、だが本当にどこかで起きているのかもしれない。
何十、何百、何千といった単位ではなく、たった一人のもつ存在の重みのほうが、はるかに人の胸に突き刺さることがある。
地形が変わるほどの爆弾が撃ち込まれるのが戦争だということを、子どもたちが次々と亡くなるのが戦争だということを、子供と自分はいつまでも一緒だと告げて亡くなった母親がいるのが戦争だということを、飢えと恐怖で生理が止まるのが戦争だということを、そして、あのおばあちゃんはそれらのぜんぶを体験したあと、もう一度、あそこで土をたがやして生きてきたのだということを、どのように娘に伝えたらいいのか私はまだわからない。
恐怖で目を見開く娘に、戦争があったのは本当にはるか遠く、これはむかしむかしのお話だと、私はいつか娘に言ってあげられるのだろうか。
『海をあげる』上間陽子 p62-63)
同じく脆い卵として、私は何ができるだろうか(最低限、寄付はしようか)。
では。