本記事の核はタイトルの通りなんですが、もうちょい細かく説明します。
■社会人3年目で立ちはだかる「仕事とプライベート」問題
「仕事はそこそこで、プライベートの時間が充実できたらいいや」
「仕事に打ち込むのって確かに大事だろうけどさ、それって人生空しくない?」
社会人3年目に至り、上のような気持ちとの折り合いの付け方についてよく考えるようになりました。
振り返ると、1年目の時はとにかく新しいことだらけで、それらに適応しようとしているうちに過ぎ去りました。2年目は途中リモートワークなども挟まったこともあり、適応した気持ちがまたゼロになったりしたため、やっぱり上のようなことを真剣に考えることはありませんでした。
そして3年目。一般に、仕事においては節目と言われることが多いようです。仕事の基本はおさえて独り立ちし、会社側としては「ここから教育コストを回収し、さらに利益を生み出す人材になっているか」が重要視されるところ。
いっぽうで一人材側としては、「仕事とプライベートの両立の仕方、仕事とどう向き合うか」なんかを考えるべき時期なんかなあ、という気がしています。
ということで今回は、「仕事とプライベート」の関係について、書いていきます。統計とか、補強するための学術的な論議とか特にない、個人的に頭の中で考えただけの思いつきなので、ある程度差っ引きながら読んでください。
■「仕事にうちこむ社会人」について
先にあげた、「仕事はそこそこ、プライベートは充実」「仕事だけの人生は空しい」といった言説は、同世代層にはそれなりに共有されている感覚だと勝手に思っています。
いっぽうで、私は仕事柄、「仕事がめっちゃ楽しい」といったタイプの方とお付き合いさせていただくことが多いのですが、この方々を駆り立てるのは、おもには「仕事そのものへのやりがい」っぽいです。
その「やりがい」は、
「自分が成長するという実感」
「仮説検証を回して、改善されていく快感」
「お客様の悩みを解決し、うれしい気持ちが共有された」
などなどさまざまですが、「やりがい」を見つけることが大事、ということは共有されているように感じます。
■アプローチの妥当性
マネジメントや、自己管理の本を読むと、ちょくちょく「上でみた「やりがい」を見つけてもらう/見つける方法」といった話が入っています。
仕事に「やりがい」があるべき、ということ自体は同意します。個人的に、どうせやるならやりがいがあるほうがいいに決まってると思うので。ただ、最近、
このアプローチは「プライベートを充実させたい」と考えている層には響きづらいのでは?
ということに気が付きました。
なぜなら、彼らの「やりがい」――広く「人生におけるやりがい」は「プライベートの充実」に設定されており、「仕事」は「プライベートの時間を奪っていくもの」、としか、認識がされていないからです。
そう思っている限り、「仕事」はむしろ「悪」といってもいいでしょう。そこに「やりがい」を見つけろ、と言われても、なかなか難しいですよね。
「やりがい」を見つけさせるアプローチはすべて、プライベート > 仕事 という彼らの中の式を逆転させて、仕事 > プライベート とさせることを最終目標にしているように思います。
遡れば、古い価値観ですが
「プライベートに時間を費やすのはただの浪費」であるとか、
「プライベートと違って、仕事には責任をもって望め」
といった言説は、すべて人の中の上の式を、逆転させるために使われていたのではないでしょうか。
ただ、これはその人にとって「不本意な」逆転のさせ方であるために反省がなされている気がします。今は
「自発的に仕事に打ち込んでもらう、やりがいを見つけてもらうためにどうすりゃいいか」
的な考え方が主流、というイメージです。
■プライベート > 仕事 のまま、仕事に打ち込む方法
「仕事は悪」と思っている人に、仕事にやりがいを見つけてもらうのは至難の業です。じゃあ、いったいどうすればいいんでしょうか?
ここで参考になるのが、今現在、仕事にやりがいを見出している人達です。
(これもあくまで印象なんですが)「仕事にやりがいを見ている人」は、でも必ずしも「すべての時間を仕事に捧げている」わけではありません。
ゲームであったり漫画であったり、いろんなものを楽しみながら、仕事をしている方のほうが多いと思います。
その中のさらに一部に、「趣味で得た知識を仕事に応用してみよう」という発想を自然にする人たちがいます。私が注目したいのはこのタイプです。
この方々は、ある意味では「仕事 = 人生」になっている人、だと思います。仕事以外で得たこともすべて仕事にし、すべての生活が仕事に集約されていきます。
このあり方から、「プライベート > 仕事」 の人たちも、学べるものがあるのではないでしょうか。
つまり、「趣味で得た知識を仕事に活かす」という姿勢をちょっと拝借して、
「仕事で得た知識を趣味に活かす」
「趣味に活かすための知識を学ぶために仕事をする」、
と発想を変えてしまえば、「プライベート > 仕事」のまま、「プライベートのやりがい」を「仕事」に持ち込むことができるのではないか、という仮説です。
■私の場合
たとえば私の趣味の一つに将棋があります。将棋は、たとえば「その論理的思考の立て方が仕事に活かせる」なんてことが言われたりします。
でも逆に、「仕事で学んだ論理的思考を将棋に活かす」としたって、本来はいいんじゃね? ていう話です。こう書いちゃうとなんてことないんですが、あんまり言われないことの気がしています。
勉強と部活動の関係性、なんかも同じです。
「部活動で学んだ根性を勉強に活かせ」とは言われても、「勉強で得た知識を部活動に活かせ」とは言われません。でも、そう考えてみたって何の不都合もない、むしろいいことばかりなように思えます。
趣味よりも、なぜ仕事が一般に上位にきてしまうのか? 考え出すと色々長くなりそうなので割愛しますが、これは「勉強して、いい大学を出て、きちんと仕事して」的な価値観があまりにも強固に社会の中にありすぎて、
「最終的に、すべてのことは仕事という一本のレールに乗せるべき」
という論理が暗黙的に導き出されてしまってるからでは、と思います。
別に、他で学んだことを仕事に載せること自体はがんがんやっていいと思います。
でも仕事だけではなく、もっといろんなレールに乗せる方が、直感的には人生豊かになるんじゃないでしょうか。
以上、仮説としては結構面白いと思うんですけど、どうでしょうか?
私は、ふとした瞬間に
「仕事やるきおきね~~~つまんね~~~」
と思うことがままあるんですが、そんときにこの理論を思い起こせば、ちょっとやる気が起きる、ぐらいな効果はあるかなと思ってます。
■欠点
この論理は、「仕事にも、プライベートにも別にやりがいなんてねえよ。ただ毎日人生をこなすだけさ」的なタイプには響かないと思います。もしそういう人に前向きに仕事をしてもらいたいなら、今議論されているような「自発的にやりがいを見つけてもらう」アプローチが有効かもです。
(個人的には、仕事/プライベートとかを離れたもっと次元をあげた目線に立って、
「生きてることそのものがすでにして絶対的なことだから、やりがいなんぞ人生の核にはなりえず、あってもなくてもどうでもええわ」
てスタンスもありだと思います)
ではまた。